日本が関与した戦争の歴史をわかりやすく解説!年表や原因、強かった理由も紹介

③第一次世界大戦(日本が関わったもの)

戦争名第一次世界大戦
1914年7月28日~
1918年11月11日
相手国ドイツ帝国
主な戦場青島、太平洋
死者(日本)約270人
死者(ドイツ)約210人
結果日本の勝利

年月出来事
1914年7月28日オーストリア=ハンガリー
がセルビアに宣戦布告
(第一次世界大戦開戦)
1914年8月4日日本の中立宣言
1914年8月15日日本、ドイツに宣戦布告
1914年10月日本、ドイツ領南洋諸島を
占領
1914年10月~11月青島の戦い
1918年11月11日ドイツ・連合国間で
休戦協定
1920年1月国際連盟創設
青島要塞を攻撃する日本軍
出典:Wikipedia

第一次世界大戦では、日本は中国の青島にあったドイツの要塞を攻略します。またドイツ領だった南洋諸島(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)も占領します。

そして、この他に連合国船団の護衛などにも従事しています。ヨーロッパ戦線へ陸上部隊を派遣することも再々要請されましたが、これは拒否を貫きました。

第一次世界大戦の原因・きっかけ

ドイツ海軍の東洋艦隊
出典:Wikipedia

同盟国のイギリスから助けを求められたのが、第一次世界大戦へ参戦した原因です。またドイツ領への領土的野心も否定できません。

第一次世界大戦は主にヨーロッパを中心としており、日本は直接関係がなさそうな気もします。しかし日本は日露戦争前にイギリスと日英同盟を結んでいたことから、イギリスから中国や南洋諸島にあったドイツの拠点を攻撃するように依頼されました。

当時これらの拠点はドイツ東洋艦隊の基地になっており、この艦隊が商船などを破壊する通商作戦へ参加するのではないかとイギリスは警戒していました。日本は当初参戦に消極的で中立を宣言していましたが、最終的には連合国側として参戦することになります。

日露戦争の結果と影響

国際連盟本部が置かれたパレ・デ・ナシオン
出典:Wikipedia

第一次世界大戦は連合国側が勝利します。日本が占領した山東省や南洋諸島の拠点はそのままドイツから譲り受けることになりました。また大戦後に作られた国際連盟で日本は常任理事国入りし、世界の五大国にまで上りつめます。

しかし中国や南洋諸島での権益を拡大したことはアメリカからの警戒心を高めることにつながってしまいました。アメリカは日本とイギリスの引き離しにもかかり、日本の孤立が少しずつ進んでいくことになります。

第一次世界大戦と日本の関係は?参戦していた?開戦の経緯から戦後の影響まで詳しく紹介

④日中戦争

戦争名日中戦争
1937年7月7日~1945年9月9日
相手国中華民国
主な戦場中国
死者(日本)約45万人~約70万人?
死者(中国)約132万人~約2100万人?
結果日本の敗北

年月出来事
1931年9月18日柳条湖事件勃発
(満州事変始まる)
1932年3月1日満州国建国
1933年3月27日日本、国際連盟脱退
1933年5月31日塘沽(タンクー)協定締結
(満州事変停戦)
1937年7月7日盧溝橋事件
日中戦争始まる)
1937年8月第二次上海事変
1937年12月日本、南京占領
1940年9月北部仏印進駐
1941年12月8日太平洋戦争開戦
1945年8月15日日本、無条件降伏
1945年9月9日日本、南京で降伏文書に調印
第二次上海事変の様子
出典:Wikipedia

日中戦争開戦後、当初日本の近衛内閣は、戦線を拡大するつもりはありませんでした。しかしその後軍部に押し切られる形で兵力を増強するという矛盾した行動を取っています。このころから軍部の暴走が目立つようになります。

そんな中、1937年8月には第二次上海事変が起こり、これにより戦線が一気に拡大していくことになりました。

この当時、日本側は首都の南京を占領すれば戦争は終わると思っていたようですが、中国側は南京が陥落すると首都を重慶に移して徹底抗戦を続けます。また、アメリカやイギリス、ソ連は中国を軍事的に援助しました。

装備などでは勝る日本軍ですが、広大な中国を相手にするには限界があり、主要な都市や主要な道路といった点や線は確保しても、それ以外は確保できない状態で、中国側のゲリラ戦術に悩まされることになります。

戦線は膠着し、交渉もうまくいかない状況の中、1941年(昭和16年)には太平洋戦争も開戦し、これらを並行して戦うことになっていきます。

日中戦争の原因・きっかけ

盧溝橋
出典:Wikipedia

この戦争はほかとはちょっと変わっていて、戦争が起きた原因がよく分かっていません。

1931年(昭和6年)に発生した満州事変、それに続く満州国の建国など日本は中国への進出を進めました。しかしこれらの動きは世界各国から日本に対する不信を高めることになり、1933年に国連を脱退するなど孤立化を深めていきます。

満州事変は1933年に塘沽協定が結ばれて一応停戦にはなりましたが、その後も日中間の緊張状態は続いていました。

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そんな中の1937年(昭和12年)7月7日、北京の盧溝橋という場所で演習中の日本軍に対して銃弾が撃ち込まれるという盧溝橋事件が発生しました。この一見ささいな出来事に思える事件がみるみるうちに拡大して全面戦争へ突入することになってしまいました。

このように日中戦争はたまたま発生したような事件から始まったので、開戦の明確な理由がよくわかっていません。少なくとも日本政府には戦争を始めようというはっきりとした意志があったわけではないようです。日本軍や中国軍による陰謀説などもありますが、未だに確定した通説はありません。

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日露戦争の結果と影響

援蒋ルートの一つ、レド公路
出典:Wikipedia

日中戦争は太平洋戦争が終結したときに同時に終わっており、日本が敗北しました。日本はそれまでに中国や満州で得た権益をすべて失いました。

また日中戦争は、太平洋戦争が起きた原因にもなっています。日本は援蒋ルートを遮断するために1940年(昭和15年)北部仏印(フランス領インドシナ)へ進駐しますが、これはアメリカをさらに刺激することになり、くず鉄などの対日禁輸が実施されることになりました。その後も経済制裁の品目は増えていき、太平洋戦争が発生する原因となっていくのです。

日中戦争とは?原因や結果、日本がしたことを年表で詳しく紹介

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3 COMMENTS

BBCkreampie

全ての発端はロシアの南下政策に対する自衛だったわけで、それに帝国主義の潮流に乗って外国に利益を求めたことが、元々関係無かったアメリカとの衝突を生んだ。皮肉なことにロシアの脅威は未だ排除されていないわけだからこの一連の戦争の歴史はまだ続いていることになる

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