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スティーブ・ジョブズとは?激動の生涯まとめ【功績や名言、年表も紹介】

スティーブ・ジョブズの生涯

1955年 – 0歳「サンフランシスコに生まれる」

adventure asphalt california country
Silicon Valleyのある
サンフランシスコ出身

サンフランシスコに生まれ、生後すぐに養子に

1955年2月24日、スティーブ・ジョブズはシリア人の父アブドゥルファタ―・シャダーリとアメリカ人の母ジョアン・キャロル・シーブルとの間に生まれます。そして生後すぐにジョブズ夫妻(ポール・ジョブズ、クラリス・ジョブズ)に養子として引き取られます。

1956年、養父ポール・ジョブズに抱かれる
2歳のスティーブ・ジョブズ

ジョブズの実父シャダーリは妻シーブルの両親からムスリムであることを理由に好ましく思われおらず、「シャダーリと交際を続けるなら勘当する」とまで言われていました。そのためシャダーリはジョブズが誕生する以前から養子にだすことは決めていたそうです。

その後の1958年、ジョブズ夫妻はパティを養子にもらい妹ができ、実父母の間には実妹のモナが生まれます。

実父母、養父母との関係

実父シャダーリ(左)とジョブズ(右)。実の親子だけあって目元や口元が似ている

ジョブズは実父とは生涯で一度も父親と会おうとはせず、父シャダーリも息子の成功に便乗していると思われるのを恐れ、息子について語ることはほとんどなかったそうです。

一方で養父母、特に養父ポール・ジョブズからは、ものづくりやエンジニアリングについての知識や姿勢など多くを学んだようです。

1960年 – 5歳「カリフォルニア州パロアルトに転居、ものづくりに目覚め始める」

ものづくりに目覚め始める

1960年、ジョブズ家はサンフランシスコからカリフォルニア州パロアルトに転居しました。小綺麗な建売りのアイクラーホームズに住みました。この頃に父、ポール・ジョブズから車や機械のエンジニアリングについて教わり、その姿勢に感銘を受け、ものづくりに目覚め始めます。

 Eichler Homes は50年代アメリカで最も成功した
建売住宅の建設業者

1961年 – 6歳「モンタ・ロマ小学校に入学。トラブルメーカーに」

停学になるほどのトラブルメーカーだった

1961年にジョブズはモンタ・ロマ小学校に入学します。小学校では親しい友人はつくらず、宿題もすることがなかったそうです。また、先生の椅子に爆竹を仕込んだり教室にヘビを放り込んだりと、いたずらばかりのトラブルメーカーだったそうです。

そして父ポール・ジョブズもこれを叱ったりせず、むしろ「授業を面白いと思えないのは先生の問題」と言ってジョブズを擁護していたそうです。

いろんな意味でのびのび自由に育ったジョブズですが、さすがにイタズラが過ぎたのか小学3年生の頃には停学処分となったこともあるそうです。

1965年 – 10歳「快活で機転のきく教師ヒルと出会い勉強が好きになる」

良い教師と出会い勉強が好きになる

1965年、小学4年生でイタズラ好きのトラブルメーカーだったジョブズは担任教師イモージュ・ヒルと出会い、その快活で機転の効く性格のおかげか勉強が好きになりました。

ヒルはジョブズの隠れた賢さに気づいていたようでキャンディなどのご褒美を提示して勉強を促していたそうです。

知能テストを受け飛び級進学

ジョブズの隠れた賢さに気づいてたヒルは4年生の終わり頃に知能検査を受けさせます。結果としてジョブズは並外れた知能を示し、1年飛び級してクリッテンデン中学校へ入学することになります。

並外れた知能があったからこそ、授業が面白くなく感じてイタズラばかりしていたのかもしれませんね。もしこの先生に出会わなければiPhoneやMacは生まれていなかったかもしれないと思うと、イタズラっ子のジョブズをよくぞしっかり見てくれたなと思ってしまいますね。

1966年 – 11歳「いじめを理由に転校」

引っ越し先のガレージ付きの平屋。ここでアップルが誕生するこになる

飛び級入学した中学校でのいじめ

1年飛び級して入学したクリッテンデン中学校では周りの生徒からいじめられることも多かったそうです。そんなガラの悪い校風にも嫌気がさしたジョブズは登校を拒否。一家はやむなくロスアルトスのガレージ付きの平屋に引っ越し、スティーブはクパーティノ中学校に転校することになりました。

もともと、ひねくれた性格のジョブズなので、イジメの対象になりやすかったのかもしれませんね。また高すぎる知能のせいか周りにも上手く溶け込めなかったのかもしれません。

1968年 – 13歳「ホームステッド・ハイスクールに入学」

ホームステッドハイスクールでのジョブズ(右から2番目)

カウンターカルチャー、音楽、文学など見る世界が広がる

1968年、13歳になったジョブズはホームステッド・ハイスクールに入学します。この頃には個人主義、反権力を掲げるカウンターカルチャーに目覚め、音楽、文学、芸術にも興味を持ち始めました。

また、この頃にはヒューレット・パッカードが青少年向けに開催していた「探求クラブ」に参加して、LEDや開発中のコンピューターなどの技術に触れる機会が多くなりました。

イタズラもテクノロジーを活用し始める

色々なカルチャーやテクノロジーに触れる機会が増え、視野がどんどん広がるジョブズでしたが、イタズラ好きな性格は変わらずでした。

この頃には、イタズラにもテクノロジーを活用するようになり、自宅の両親の寝室を盗聴しようとしたりしていたそうです。

1969年 – 14歳「スティーブ・ウォズニアックとの出会い」

スティーブ・ウォズニアックと出会いすぐに意気投合

ジョブズの右腕、スティーブ・ウォズニアック

1969年、ジョブズは友人ビル・フェルナンデスの紹介で、5歳年上のスティーブ・ウォズニアックと出会い、音楽の趣味や笑いのツボ、テクノロジーに興味があるなどの共通点からすぐに打ち解けたそうです。

また、いたずら好きであるところも共通していて、卒業式の最中に自作の垂れ幕を屋根から無断で吊るそうとしたり、自作した長距離電話機でバチカンにいたずら電話をかけたりしていたそうです。ウォズニアックと出会ったことで、いたずらの技術レベルが高まったのは間違いないようです。

部品ほしさにヒューレット・パッカードCEOに直接交渉

あるとき、ジョブズは周波数カウンターを作るためにヒューレット・パッカードのCEOの自宅に電話をかけて「足りない部品をください」と直接交渉。そして、その夏には周波数カウンターの組み立てラインでアルバイトをしていたそうです。

少年時代の頃から、実現したいことに向かうときは臆することなく突き進む性格だったことが分かるエピソードですね。

ブルーボックス販売でひと儲け

ウォズニアックが製作したブルーボックス

1971年頃。ジョブズとウォズニアックは一緒にイタズラするだけにとどまらず、ブルーボックスという不正に無料で長距離電話をかけられる装置を自作、販売して儲けていたそうです。

雑誌に掲載されていたブルーボックスについての記事を読んだことがきっかけでスタンフォード大学の図書館に忍び込んで技術資料を探し出し、それを元にウォズニアックがブルーボックスを自作してしまったとか。

ウォズニアックは装置を作れたことに満足しましたがジョブズは、それを1台150ドルで販売(材料費は40ドル)し、最終的には200台あまりを売りさばきました。しかし、あるとき銃で脅されてブルーボックスを奪われ、身の危険を感じた2人は販売をやめたそうです。

後年、ジョブズは「このブルーボックス販売の経験がなければアップルが誕生することはなかったのは100%確実だ」とかたったそうです。

“Stay hungry, stay foolish”「ホールアースカタログ」最終号の発行

ヒッピー向け雑誌
「ホールアースカタログ」が
大好きだったジョブズ

“Stay hungry, stay foolish” という一言とともに「ホールアースカタログ」の最終号が1971年6月に発行されました。この一言はジョブズの座右の銘となり、のちのスタンフォード大学卒業式の式辞でも引用されたことで有名です。

生涯を通して、なりふり構わず常に何かを追い求めて突き進んだジョブズの生き様をまさに表した一言だと思います。

1972年 – 17歳「始めたのガールフレンド、リード大学入学、そしてLSD」

スティーブ・ジョブズが通ったリード大学

初めてのガールフレンド、クリスアン・ブレナン

大学入学をする1972年の春、1歳年下のヒッピー風の少女、クリスアン・ブレナンと付き合い始めます。きっかけは一緒にアニメーション映画をつくったことで、ジョブズにとっては初のガールフレンドだったそうです。

のちに、子どもができるものの認知をしなかったりと複雑な事情に発展する2人ですが、この頃はまだそんなことをは知る由もありませんでした。

奇行が目立つ大学生活

1972年9月、ジョブズはオレゴン州のリード大学に入学します。スタンフォード大学などいわゆるアイビー・リーグではなく、なぜリード大学だったのか。

当時のリード大学は自由を重んじる校風であり、ジョブズ曰く「スタンフォードに行くのは自分のしたいことが分かっている学生だ。そんなものはアートではない」とのこと。要は、やりたいことはまだ明白ではけど自由に色々な面白いことをやりたかった、ということで大学を選んだようです。

大学ではユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの宗教から座禅やヒッピー文化などに傾倒。全く風呂に入らなかったり裸足で大学構内を歩くなどの奇行とも取れる行動も行っていたそうです。いくら自由な校風だからといって、さすがに浮いた存在だったのではないでしょうか。

マリファナ・LSDを始める

この頃からマリファナを始めたジョブズ。あるとき父親に見つかって大喧嘩になっても「マリファナはやめない」と頑なだったそうです。

マリファナだけでなくLSDも使用していたらしく、Business Insiderの記事によるとマリファナの使用は1973年から1977年の5年間に週に1~2回。LSDに関しては1972年から1974年までの間に15回程使用していたそうです。

LSDについては晩年「人生でトップクラスに重要な体験だった。人生を金儲けだけに費やすのではなく歴史という流れに戻すこと、人の意識という流れに戻すことの重要性に気づかせてくれた」と語るほどだったそうでです。

正直、筆者はジョブズの言っていることが理解できませんが、これらの体験がなければ今のアップルはなかったかもしれませんね。

1973年 – 18歳「大学を半年で中退」

半年で大学を退学

興味のない必修科目を嫌い退学するも18ヶ月もぐりで講義にでる

1972年9月に大学へ入学したジョブズでしたが、たった半年で中退してしまいます。本人曰く「両親が一生をかけて貯めた学費を意味のない教育に使うのに罪悪感を抱いた」とのことですが、興味のない必修科目を履修することが本当に退屈で嫌だったんじゃないでしょうか。

ただ、中退後もコカ・コーラの空き瓶拾いや心理学科の電子装置修理などで日銭を稼ぎながら大学キャンパスを放浪。ジョブズを心配してくれる教授からの勧めで興味のある哲学やカリグラフィーのクラスだけ聴講するもぐりの学生として18ヶ月も大学にいたそうです。

ちなみに、この時に学んだカリグラフィーが、のちにMac OSのタイポグラフィー(文字をデザイン要素として捉える手法や考え方)に大きく影響したそうです。

1974年 – 19歳「インドへの旅の旅費稼ぎのためにアタリ社へ」

映画「スティーブ・ジョブズ」より

インドへの旅費を稼ぐためにアタリ社へ入社

1974年2月、自分探しまっさかりのジョブズは、インドに導師を求める旅をしに行きたいと考え始めます。

インドまでの旅費を稼ぐために働くことを決めたジョブズは早速ビデオゲームを制作していたアタリ社を訪問。「雇ってくれるまで帰らない」と宣言して当時のアタリ社トップであるノーラン・ブッシュネルを引っ張り出して直接交渉したそうです。

ビデオゲームの父とも呼ばれているアタリ創業者のノーラン・ブッシュネル

そんなアグレッシブな行動が気に入られたのか、ジョブズはアタリ社の40人目の社員として採用され、時給5ドルの下級エンジニアとして働くことになりました。

不潔で尊大な無礼者だった

アタリ社に入社したあとのジョブズは髪は切らずに長髪、風呂には入らずサンダルや裸足で社内をうろつく不潔な姿や、誰に対しても尊大な態度で接していたため、技術部長のアラン・アルコーンをはじめ、大半の社員からは「失礼な奴」と思われていたそうです。

念願のインドへ。消息不明からの唐突の帰国

念願のインドへ

ジョブズは、ドイツ・ミュンヘンでの旅費込みのゲーム修理の仕事を終えて、そのままアメリカには戻らずに友人のダン・コトケとインドへ向かいました。アタリ社にはインド行きを知らせていなかったため、消息不明のような扱いだったそうです。

インドに到着したジョブズは到着早々に赤痢にかかって苦しんだり、坊主頭になったりしながらインドを放浪したそうです。

インドに渡って数ヶ月後の1975年初頭。突にアタリ社に戻ったジョブズは興奮しながらインドの思い出を語って周りの社員を驚かせました。ドイツに行って消息不明になった人が突然戻ってきて、しかもインドの話しを始めたら、それは驚きますよね。

インドで学んだ直感の重要性

数ヶ月のインドの放浪でジョブズは「直感の重要性」を学んだらしく、以下のように語ったそうです。

僕にとっては、インドに行ったときより米国に戻ったときのほうが文化的ショックが大きかった。インドの田舎にいる人々は僕らのように知力で生きているのではなく、直感で生きている。そして彼らの直感は、ダントツで世界一というほどに発達している。僕は、直感は知性よりも強力だと思っているし、このことが僕の仕事に大きな影響を与えた。

後年、フェイスブックの創業者マーク・ザッカーバーグにもインド旅行を勧めるほどなので、彼の人生に大きな影響を与えた経験だったことが分かります。アメリカに戻ってからは、曹洞宗の禅僧である鈴木俊隆と知野弘文を導師として禅を学んだそうです。

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