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スティーブ・ジョブズとはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や名言も紹介】

「スティーブ・ジョブズは何がすごいの?どんな人だったの?」
「生涯や経歴を詳しく知りたい!」
「どんな名言や功績を残しているの?」

「スティーブ・ジョブズ」は、今や世界中の誰もが知るApple社の創設者であり、iPhoneの生みの親とも言われていて、さらにはiPhoneだけでなくパソコンのMacなど、世界的に誰でも知っていて人々のライフスタイルを大きく変える製品を手掛けてきました。

iPhone の生みの親、スティーブ・ジョブズ

今や「あって当たり前のもの」になったスマートフォンの代名詞ともいえる「iPhone」は、ボタン式の携帯電話が当たり前の2007年にApple社から発表され全世界に大きな衝撃を与えました。

今回の記事では、iPhone無しではもう生きられない筆者がiPhoneの産みの親であり、世界の当たり前をいくつも産み出した「スティーブ・ジョブズ」について、その生涯や功績、都市伝説など深掘っていきます。

目次

スティーブ・ジョブズの経歴・略歴

名前スティーブン・ポール・スティーブ・ジョブズ
誕生日1955年2月24日
没日2011年10月5日
生地アメリカ合衆国カリフォルニア州
サンフランシスコ
没地アメリカ合衆国カリフォルニア州パロアルト
配偶者ローレン・パウエル
埋葬場所アメリカ合衆国カリフォルニア州パロアルト

1971年、当時16歳だったスティーブ・ジョブズは友人のスティーブ・ウォズニアックとブルーボックス(電話回線を不正利用して無料で長距離電話ができる機械)を自作し売り捌いていました。

大きな利益を得ましたが、あるとき銃で脅されブルーボックスを奪われる事件をきっかけにブルーボックスの自作販売はやめることになりました。ただジョブズはのちに、このブルーボックスで商売した経験がなければアップルが誕生することはなかった、と言っています。

その後ジョブズは、一緒にブルーボックスを販売していたウォズニアックが自作したマイクロコンピュータ「Apple I」に商業的な価値を見出し、自宅ガレージに「アップル・コンピュータ・カンパニー(Apple Computer Company)」を設立、販売を開始します。これが今や誰もが知る「Apple(アップル)」の始まりでした。

その後、ジョブズは非常に頑固でストイックな性格もあり、開発チームや経営陣との確執が原因でアップル社を一時離脱したりもしますが、最終的には iMac や iPod、そして iPhone などのデジタル業界を牽引する製品を数多く産み出しました。(ちなみにジョブズは技術者ではありません)

56歳という現代の平均寿命からすると短い生涯でしたが、死去する2011年にはアップル社の時価総額は23363億ドルで当時世界一となり、2019年には1兆5000億ドル(約160兆円)に到達。世界に革新を起こしたiPhoneはこれまでに18億台以上が販売され、世界でアップルのことを知らない人はいないと言っても過言ではない偉業を成し遂げました。

スティーブ・ジョブズの性格や人物像

スティーブ・ジョブズの生い立ち

ジョブズ夫妻とスティーブ・ジョブズ

1955年2月24日、スティーブ・ジョブズはシリア人の父アブドゥルファタ―・シャダーリとアメリカ人の母ジョアン・キャロル・シーブルとの間に生まれますが、生後すぐにジョブズ夫妻(ポール・ジョブズ、クラリス・ジョブズ)に養子として引き取られます。

ジョブズ夫妻のもとで育ったスティーブ・ジョブズは、小さい頃から周りと少し変わった少年でした。小学校では誰とも仲良くすることはなく、宿題もせずにイタズラばかりしていたそうです。

そんなスティーブ・ジョブズですが、小学4年生時の担任の先生の影響もあり勉強好きになったり、知能テストを受けて飛び級したりと知能の高さを見せ始めました。周りと変わっていてイタズラばかりしていたのは授業が退屈だったからなのかもしれません。

高校生の頃には、共にアップルの前身であるアップル・コンピューターを立ち上げることになるウォズニアックと出会い、テクノロジーの世界にのめり込んでいくことになります。

スティーブ・ジョブズの性格

映画「スティーブ・ジョブズ」より

スティーブ・ジョブズの性格については「最悪」と言っても過言がないでしょう。癇癪持ちで自分の意にそぐわない場合は辛辣な言葉で従業員を罵倒したり、ときにはその場でクビにしたりもしたそうです。

また、部下がアイディアを持ってきたときには聞く耳を持たないような態度を取りながら、次の日にはそのアイディアを自分で思いついたかのように話していた、というようなエピソードもあります。

他にも恋人が妊娠しても自分の子どもだと認知しなかったり、裁判で養育費の支払いを義務付けられたのに途中で支払いをやめたり、山分けのはずの報酬を嘘をついて自分の取り分を多くしたりなどなど。

ジョブズの性格の悪さが現れているエピソードは、アメリカの技術ニュースの専門ウェブサイト「ビジネス・インサイダー」に「スティーブ・ジョブズが最低な人間だったことを示す16例」というまとめ記事が作られるほどだったそうです。

「優れたリーダーになるためにはスティーブ・ジョブズを真似てはいけない」とまで言われています。

スティーブ・ジョブズの家庭事情

ジョブズとその家族

生後すぐに養子に出されたスティーブ・ジョブズは、最終的には4人の子どもをこの世に残しました。

中でも元恋人の娘(リサ・ブレナン・ジョブズ)とは、ジョブズがまだ若い頃は自分の娘だと認知していなかったこともあり、複雑な父と娘の関係だったそうです。その様子はリサ・ブレナン・ジョブズが書いた回想録「Small Fry」にも綴られています。

ジョブズと娘のリサ

ただ、晩年はリサとも一緒に暮らし、家族に看取られながら生涯を終えることができたそうです。

スティーブ・ジョブズのライバル

ビル・ゲイツ(左)とスティーブ・ジョブズ(右)

スティーブ・ジョブズのライバルといえば、ジョブズと同じ年に生まれ、Microsoftの創業しWindowsを開発したビル・ゲイツです。2人は20代の頃からコンピューター業界で何度も衝突することになります。

犬猿の仲と言われることもありますが、実は自他ともに認める友人でもあり、ジョブズがMacintosh用の表計算ソフトの製作をビル・ゲイツに依頼したりもしていました。ジョブズにとっては、本気でぶつかりあえる、まさにライバルだったのだと思います。

アップル由来、ロゴマークの意図

黄金比だけで作られているアップルのロゴマーク

りんごが一口かじられたロゴマークのアップル。その名前はなぜアップルなのか、なぜロゴは一口かじられているのでしょうか。

アップルという名前については、ジョブズ曰く「りんご農園の帰りに「アップル」という言葉の響きが、楽しげで威圧感がなく、当時在籍していたアタリ社よりも電話帳で上に表記される、ということを思いつき採用した」と語っています。

ロゴマークについては、「かじる(bite)」と「バイト(byte。コンピューターが扱うデータ量の単位)」とかけているんだとか。また、トマトに見えないように、という意図もあるそうです。

スティーブ・ジョブズの死因

晩年はガンの影響で体重が落ちていたジョブズ

スティーブ・ジョブズの死因は膵臓ガンの転移による呼吸停止とされています。2003年にガンの宣告を受けたジョブズは最初、摘出術などの西洋医学に頼らず、民間療法でガンを克服しようとしました。

しかし、9ヶ月後にはガンは治るどころか大きくなっていて、やむなく摘出術を受けるも転移が進行してしまし、最終的にはこれが原因で生涯を終えることになりました。晩年、ジョブズは手術を拒否して民間療法に頼ったことを後悔していたそうです。

スティーブ・ジョブズの功績

功績1「Apple(アップル)を設立」

1997年当時のウォズニアック(右)とジョブズ

スティーブ・ジョブズは、今では世界で知らない人はいないほどの有名企業であるApple(アップル)を友人のウォズニアックとともに創業しました。創業当初は会社のビルのようなものはなく、自宅のガレージからスタートした、という逸話もあります(この逸話は実は誇張されているとか)。

アップルは、世界初の個人向けコンピューター(PC)をはじめ、人々の生活スタイルを変えるような革新的な製品を多数産み出し、文字通り世界を変えてきた企業です。

功績2.「ピクサーの設立」

ピクサーを設立したスティーブ・ジョブズ

意外に思う人もいるかも知れませんが、CGアニメーション映画で有名なピクサーはスティーブ・ジョブズによって設立されました。ただ、ジョブズがゼロから立ち上げたのではなく、映画監督のジョージ・ルーカスの映画制作スタジオであるルーカスフィルムのCG部門をジョブズが買収して立ち上げた会社でした。

ピクサーは世界初のフルCGアニメーション映画「トイ・ストーリー」や「ファインディング・ニモ」など、技術的にも最先端で、内容も名作な作品を多数の夜に送り出しています。

功績3.「iPhone, iPad を手掛ける 」

初代iPhoneの発表

スティーブ・ジョブズの功績を語る上でiPhone、iPadの発明は外せません。特にiPhoneは「携帯電話を再定義(再発明)した」というフレーズともに発表されました。

そのフレーズ通りに、当時のボタンが沢山並んだ携帯電話のイメージを大きく覆すもので「ここからスマートフォンが始まった」といっても過言ではないほどのインパクトを世界に与えました。また、iPadは電子書籍ビジネスが活性化するキッカケとなりました。

スティーブ・ジョブズの名言

重要なことに集中する唯一の方法は「ノー」と言うことだ。
It’s only by saying no that you can concentrate on the things that are really important.

Appleの再建の際には40種類もの製品を4種類に絞って集中して会社を立て直したジョブズの「何をしないかを決めることは、何をするのかを決めるのと同じくらい大事なことだ」という信条が現れた一言です。

シンプルであることは、複雑であることよりもむずかしいときがある。物事をシンプルにするためには、懸命に努力して思考を明瞭にしなければならないからだ。だが、それだけの価値はある。なぜなら、ひとたびそこに到達できれば、山をも動かせるからだ。
Simple can be harder than complex. You have to work hard to get your thinking clean to make it simple. But it’s worth it in the end because once you get there, you can move mountains.

禅にも通じる、引き算の美学で徹底的に無駄を排除してシンプルにすることで真の意味や価値が見えてくる、というジョブズの哲学が現れた一言です。

すばらしい仕事をする唯一の方法は、自分のやっていることを好きになることだ。まだそれを見つけていないのなら、探し続けなければいけない。安住してはいけない。心の問題のすべてがそうであるように、答えを見つけたときには、自然とわかるはずだ。
The only way to do great work is to love what you do. If you haven’t found it yet, keep looking. Don’t settle. As with all matters of the heart, you’ll know when you find it.

伝説のスピーチとも言われているスタンフォード大学卒業式の式辞のワンフレーズです。

あなたの時間は限られている。だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない。ドグマ(教義、常識、既存の理論)にとらわれるな。それは他人の考えた結果で生きていることなのだから。他人の意見が雑音のようにあなたの内面の声をかき消したりすることのないようにしなさい。そして最も重要なのは、自分の心と直感を信じる勇気を持ちなさい。それはどういうわけかあなたが本当になりたいものをすでによく知っているのだから。それ以外のことは、全部二の次の意味しかない。
Your time is limited, so don’t waste it living someone else’s life. Don’t be trapped by dogma – which is living with the results of other people’s thinking. Don’t let the noise of others’ opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.

こちらもスタンフォード大学のスピーチの中のワンフレーズです。ジョブズの生き様が理解できる一言です。

ハングリーであれ。愚か者であれ
Stay hungry. Stay foolish.

スティーブ・ジョブズの座右の銘とも言われるワンフレーズ。1971年に発行された「ホール・アース・カタログ」最終号に添えられたフレーズで、ジョブズはこのフレーズを座右の銘としてスタンフォード大学で行ったスピーチの締めの言葉として引用しています。

スティーブ・ジョブズにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「不潔を理由に夜勤に変えられた」

若かりし頃のジョブズ(左)とウォズニアック(右)

スティーブ・ジョブズは特に若い頃は不潔なことで有名でした。大学構内を裸足で歩き回っていたり、菜食主義だから体臭は臭くならないと考えてシャワーを全く浴びなかったりしたそうです。

アタリ社で働いているときも同じような不潔な状態だったため他の社員から苦情がきて、一人だけ夜勤に変えさせられたそうです。

ただ、夜勤になったことで夜中こっそりウォズニアックを会社内に入れて仕事をしてもらったりしている中で将来のコンピューターの土台となる技術が生まれたりしたので、結果としてはジョブズが不潔で良かった、ということになります。

都市伝説・武勇伝2「5分間のスピーチの準備に数百時間」

スピーチをするジョブズ

初代iPhoneの発表スピーチや、スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチにもあるように、スティーブ・ジョブズはスピーチが上手いことでも有名です。ただ、ジョブズは単に喋りが上手なわけではありませんでした。

5分間のスピーチのための準備をする際には、何週間も前から準備を始め、チームで数百時間を費やしして製品技術についての勉強や情報収集、デモの準備などを行い、リハーサルは丸2日、本番前日には本番と同じリハーサルを必ず1~2回行っていたそうです。

常人には中々できない徹底っぷりですが、だからこそ人々を惹きつけるプレゼンを生涯行うことができたのだと思います。

都市伝説・武勇伝3「特殊能力、現実歪曲空間を持っていた」

現実歪曲空間

「スティーブ・ジョブズは現実歪曲空間(Reality distortion field、RDF)という特殊能力を持っていました」。こう聞くと冗談かなにかだと思われそうですが、「現実歪曲空間」とは1981年にアップル・コンピューターのバド・トリブルがジョブズのカリスマ性とMacintoshプロジェクトメンバーへの影響を言い表した造語です。

RDFはジョブズ自身と周囲の人間に、ほとんどどんな考えでも吹き込む能力であり、実現困難な課題であっても、その規模感や距離感を歪ませて、容易に解決できるような気になる能力だと言われています。

半分冗談のような造語ですが、実際に聴衆を惹きつけるプレゼンを見ていると、そういった特殊能力を持っていたこともうなずけます。

都市伝説・武勇伝4「ジョブズの遺した金庫を開けるために指紋認証がiPhone5Sに搭載された?」

指紋認証機能

指紋認証機能が初めて搭載されたiPhone5S。この指紋認証機能にまつわる都市伝説があります。それは、ジョブズが遺した金庫を開けるための指紋を探し出すためにiPhone5Sに指紋認証機能が搭載された、というものです。

2011年に亡くなったジョブズですが、亡くなる前に未発表の画期的なアイディアをまとめたメモを遺していたそうです。そのメモは金庫に入れられ、その金庫はジョブズの指紋によってロックされているのだとか。

指紋は数百万人に一人程度の確率で一致することがあるらしく、iPhone5Sに指紋認証機能が搭載されたのは、ジョブズと同じ指紋を持ち、金庫を開けることができる人を探し出すためらしいのです。

そういえば最近発売されたiPhoneSEでは指紋認証機能が復活しましたよね。もしかしらたある日、アップルの社員があなたのところに迎えに来るかもしれませんね。

都市伝説・武勇伝5「”ガレージ創業” はウソだった?」

アップルはジョブズの実家のガレージで創業したと言われていた

スティーブ・ジョブズのアップル創業にまつわるエピソードの中でも「ガレージで創業した」というのは有名なエピソードです。しかし、この「ガレージ創業」のエピソードを、ジョブズとともにアップルを創業したウォズニアックは「ちょっとした作り話」「誇張されたもの」と否定したそうです。

実際のところは、設計や開発はガレージでは行っておらず、完成した製品の動作確認をしたり、販売先の店舗へ搬送するための荷積みにガレージを使っていたんだとか。

ジョブズの伝記や映画、オバマ大統領の演説でも言及されたりと多くの人が「ガレージ創業」を信じていただけにショックではあるものの、なし得た偉業が消えるわけですし、ジョブズならやりそうだな、という誇張表現だなと納得しました。

スティーブ・ジョブズの簡単年表

1955年 - 0歳
誕生、生後すぐに養子に
1955年2月24日サンフランシスコ、スティーブ・ジョブズはシリア人の父、アブドゥルファタ―・ジャンダーリとアメリカン人の母、ジョアン・キャロル・シーブルとの間に誕生。生後すぐにジョブズ夫妻に養子に出されました。
1961年 - 6歳
モンタ・ロマ小学校に入学、イタズラばかりするトラブルメーカーに
1961年、6歳になったジョブズはモンタ・ロマ小学校に入学。小学校では先生の椅子に爆竹を仕込んだり、教室にヘビを放り込んだりとイタズラばかりするトラブルメーカーに。小学3年生のときには停学処分になるほどでした。
1966年 - 11歳
1年飛び級でクリッテンデン中学校に入学
1966年、11歳になったジョブズは知能検査で高校2年生レベルと判定され、1年飛び級してクリッテンデン中学校に入学しました。この頃は他の生徒からいじめられることも多かったそうです。
1967年 - 12歳
クリッテンデン中学校に嫌気がさしクパーティノ中学校に転校
1967年、クリッテンデン中学校ではいじめられることが多かったスティーブ・ジョブズは、ガラの悪い校風にも嫌気がさして登校を拒否します。やむなく一家はロスアルトスのガレージ付きの平屋に引っ越し、スティーブはクパーティノ中学校に転校しました。
1968年 - 13歳
ホームステッド・ハイスクールに入学
1968年、ジョブズはホームステッド・ハイスクールに入学します。この頃には個人主義、反権力を掲げるカウンターかるや―に目覚め、音楽、文学、芸術にも興味を持ち始めました。この頃にはヒューレット・パッカード開催の「探求クラブ」に参加し、LEDや開発中のコンピューターなどの技術に触れる機会が多くなりました。
1969年 - 14歳
スティーブ・ウォズニアックと出会う
1969年、5歳年上でのちにアップルの立ち上げの重要人物でもあるスティーブ・ウォズニアックと出会いました。音楽の趣味や笑いのツボ、テクノロジーに興味があるなどの共通点からすぐに打ち解けたそうです。
1972年 - 17歳
オレゴン州のリード大学に入学
1972年、ジョブズはオレゴン州のリード大学に入学します。大学時代にはユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの宗教から座禅やヒッピー文化などに傾倒し、全く風呂に入らなかったり裸足で大学構内を歩くなどの奇行とも取れる行動も行っていました。
1973年 - 18歳
リード大学を半年で中退
1973年、ジョブズはたった半年でリード退学を中退します。しかし中退後も興味のある講義を聴講するだともぐりの学生生活を18ヶ月も続けました。
1974年 - 19歳
インド旅行の旅費を稼ぐためにアタリ社に入社
1974年、インドを旅したいと考えたジョブズは旅費を稼ぐためにアタリ社を訪問、「雇ってくれるまで帰らない」と宣言し、その行動が気に入られたのか、時給5ドルで働くことになりました。その後、ドイツでの仕事の帰りにアメリカに戻らずインドを放浪したそうです。
1975年 - 20歳
アタリ社へ復帰
1975年、インドからから帰国し、アタリ社へ復帰。上司から命じられた仕事を毎晩、ウォズニアックを密かに会社に招き入れて代りにやってもらったりしていました。ウォズニアック曰く、このときの経験がのちのアップル製品である「Apple I」や「Apple II」の設計に役立ったと語っています。
1976年 - 21歳
アップルコンピューター・カンパニーを設立
1976年4月1日、ジョブズは友人のウォズニアックとロナルド・ウェインと、ウォズニアックが開発したコンピューター、「Apple I」を販売するビジネスパートナーシップとして「アップルコンピュータ・カンパニー」を設立します。設立のためにジョブズは愛車のワーゲンを、ウォズニアックはプログラム電卓を売り払ったそうです。
1977年 - 22歳
アップルコンピューター設立、世界初のパソコン発表
ジョブズは1977年にマイク・マークラの援助を受けて新法人「アップルコンピューター」を設立。アップルコンピューター・カンパニーは買収する形になりました。そして同年4月16日から17日にかけて開催された第一回「ウェスト・コースト・コンピューター・フェア」で世界初の個人向けコンピューター(パーソナルコンピューター)「Apple II」を発表しました。
1980年 - 25歳
アップル・コンピューターが新規株式公開
1980年、「Apple II」の売れ行きも好調なアップルコンピューターは新規株式公開(IPO)を行いました。これによりスティーブ・ジョブズは約2億5600万ドルを手に入れました。
1984年 - 29歳
Macintosh発表。CMは好評だったが赤字に
1984年、IBMを挑発するような内容のCMをスーパーボウルのCM枠で流すことでMacintoshを発表しました。このCMは大評判で数々の賞を受賞しました。しかし、Macintoshの需要予測を大幅に誤ったことで在庫過多となりアップル・コンピュータは初の赤字を計上しました。
1985年 - 30歳
アップル・コンピュータを退職。新会社NeXTを設立
1985年5月31日、社員や重役との溝が深まっていくスティーブ・ジョブズはついに「経営を混乱させた」として・コンピューターを解任、名目上の会長職を与えらます。アップル・コンピュータで何もできなくなったジョブズは9月13日にアップルを完全に退職。同年にはアップル・コンピュー新たな構想でコンピューターづくりをするために新会社NeXTを設立しました。
1986年 - 31歳
ピクサーの設立
1986年夏、映画監督ジョージ・ルーカスのスタジオであるルーカスフィルムのCG部門を訪れたジョブズは、コンピューターグラフィックス技術に心を奪われ、CG部門を1000万ドルで買収。「ピクサー」と名付け、そのCEOに就任しました。
1991年 - 36歳
結婚、長男の誕生
1991年1月1日、ジョブズは恋人のローレン・パウエルにプロポーズして受け入れてもらいます。その後、3月18日にささやかに挙式が行われ、同年9月には長男、リード・ポール・ジョブズが誕生しました。
1995年 - 40歳
映画「トイ・ストーリー」公開、株式上場して多額の資産を得る
1995年、製作に4年かかった世界初のフルCGアニメーション映画「トイ・ストーリー」が公開され世界的な大ヒット。その直後にピクサーは株式を公開し上場。ジョブズが保有していたピクサー株80%は6億ドルに達し、再び多額の資産を得ることになりました。
1996年 - 41歳
アップル・コンピューターへ復帰
1996年12月20日、アップル・コンピューターは次期OSの基礎技術としてジョブズが設立したNeXTが開発するNEXTSTEPを採用することを決定。NeXTを買収し、ジョブズもアップル・コンピューターに復帰することになりました。
1998年 - 43歳
iMacを発表
1998年、アップル・コンピューターからiMacが販売。これまでのコンピューターの見た目を一新したトライスルーセント(日本ではスケルトン)と呼ばれる筐体デザインはコンピュータ以外の分野へも影響を及ぼすほどに大ヒットしました。
2001年 - 46歳
iTunes、iPodで音楽事業に参入
2001年、アップル・コンピュータは「iTunes」と[iPod」を発表し、本格的に音楽事業に参入ししていきます。当時、多くの歌手や音楽レーベルからの反発が起こりましたが、ジョブズ自ら説得するなど基盤整備に奔走したそうです。
2003年 - 48歳
膵臓ガンの宣告を受ける
iMacのヒットやiTunesの発表など世界を騒がせていたスティーブ・ジョブズでしたが、2003年に膵臓ガンの宣告を受けます。当初は手術など頑なに断り民間療法での完治を試みましたが、診断から9ヶ月後には摘出手術を受けることになりました。
2007年 - 52歳
初代iPhoneを発表。携帯電話を再定義
2007年1月9日、サンフランシスコで開催されたマックワールドにて「携帯電話を再定義した」として初代iPhone」を華々しく発表。全世界の反響を呼びました。
2010年 - 55歳
初代iPadの発表。電子書籍ビジネスが活性化
2007年1月27日、「魔法のような革命的なデバイス」として、iPhoneの機能をベースに画面を雑誌サイズにしたiPadを発表。特に電子書籍ビジネスを活性化させる大きな影響を与えました。
2011年 - 56歳
iPhone4Sの正式発表直後に死去
2011年10月5日、膵臓がんの転移による呼吸停止によりパロアルトの自宅で家族に看取られながら死去しました。前日(10月4日)の午前中に行われたiPhone 4Sの正式発表を見届けたところでした。

スティーブ・ジョブズの具体年表

1955年 – 0歳「サンフランシスコに生まれる」

赤ちゃんのころのスティーブ・ジョブズ

サンフランシスコに生まれ、生後すぐに養子に

1955年2月24日、スティーブ・ジョブズはシリア人の父アブドゥルファタ―・シャダーリとアメリカ人の母ジョアン・キャロル・シーブルとの間に生まれます。そして生後すぐにジョブズ夫妻(ポール・ジョブズ、クラリス・ジョブズ)に養子として引き取られます。

1956年、養父ポール・ジョブズに抱かれる2歳のスティーブ・ジョブズ

ジョブズの実父シャダーリは妻シーブルの両親からムスリムであることを理由に好ましく思われおらず、「シャダーリと交際を続けるなら勘当する」とまで言われていました。そのためシャダーリはジョブズが誕生する以前から養子にだすことは決めていたそうです。

その後の1958年、ジョブズ夫妻はパティを養子にもらい妹ができ、実父母の間には実妹のモナが生まれます。

実父母、養父母との関係

実父シャダーリ(左)とジョブズ(右)。実の親子だけあって目元や口元が似ている

ジョブズは実父とは生涯で一度も父親と会おうとはせず、父シャダーリも息子の成功に便乗していると思われるのを恐れ、息子について語ることはほとんどなかったそうです。

一方で養父母、特に養父ポール・ジョブズからは、ものづくりやエンジニアリングについての知識や姿勢など多くを学んだようです。

1960年 – 5歳「カリフォルニア州パロアルトに転居、ものづくりに目覚め始める」

アイクラー・ホームズの広告

ものづくりに目覚め始める

1960年、ジョブズ家はサンフランシスコからカリフォルニア州パロアルトに転居しました。小綺麗な建売りのアイクラーホームズに住みました。この頃に父、ポール・ジョブズから車や機械のエンジニアリングについて教わり、その姿勢に感銘を受け、ものづくりに目覚め始めます。

1961年 – 6歳「モンタ・ロマ小学校に入学。トラブルメーカーに」

停学になるほどのトラブルメーカーだった

1961年にジョブズはモンタ・ロマ小学校に入学します。小学校では親しい友人はつくらず、宿題もすることがなかったそうです。また、先生の椅子に爆竹を仕込んだり教室にヘビを放り込んだりと、いたずらばかりのトラブルメーカーだったそうです。

そして父ポール・ジョブズもこれを叱ったりせず、むしろ「授業を面白いと思えないのは先生の問題」と言ってジョブズを擁護していたそうです。

いろんな意味でのびのび自由に育ったジョブズですが、さすがにイタズラが過ぎたのか小学3年生の頃には停学処分となったこともあるそうです。

1965年 – 10歳「快活で機転のきく教師ヒルと出会い勉強が好きになる」

良い教師と出会い勉強が好きになる

1965年、小学4年生でイタズラ好きのトラブルメーカーだったジョブズは担任教師イモージュ・ヒルと出会い、その快活で機転の効く性格のおかげか勉強が好きになりました。

ヒルはジョブズの隠れた賢さに気づいていたようでキャンディなどのご褒美を提示して勉強を促していたそうです。

知能テストを受け飛び級進学

ジョブズの隠れた賢さに気づいてたヒルは4年生の終わり頃に知能検査を受けさせます。結果としてジョブズは並外れた知能を示し、1年飛び級してクリッテンデン中学校へ入学することになります。

並外れた知能があったからこそ、授業が面白くなく感じてイタズラばかりしていたのかもしれませんね。もしこの先生に出会わなければiPhoneやMacは生まれていなかったかもしれないと思うと、イタズラっ子のジョブズをよくぞしっかり見てくれたなと思ってしまいますね。

1966年 – 11歳「いじめを理由に転校」

引っ越し先のガレージ付きの平屋。ここでアップルが誕生するこになる

飛び級入学した中学校でのいじめ

1年飛び級して入学したクリッテンデン中学校では周りの生徒からいじめられることも多かったそうです。そんなガラの悪い校風にも嫌気がさしたジョブズは登校を拒否。一家はやむなくロスアルトスのガレージ付きの平屋に引っ越し、スティーブはクパーティノ中学校に転校することになりました。

もともと、ひねくれた性格のジョブズなので、イジメの対象になりやすかったのかもしれませんね。また高すぎる知能のせいか周りにも上手く溶け込めなかったのかもしれません。

1968年 – 13歳「ホームステッド・ハイスクールに入学」

ホームステッドハイスクールでのジョブズ(右から2番目)

カウンターカルチャー、音楽、文学など見る世界が広がる

1968年、13歳になったジョブズはホームステッド・ハイスクールに入学します。この頃には個人主義、反権力を掲げるカウンターカルチャーに目覚め、音楽、文学、芸術にも興味を持ち始めました。

また、この頃にはヒューレット・パッカードが青少年向けに開催していた「探求クラブ」に参加して、LEDや開発中のコンピューターなどの技術に触れる機会が多くなりました。

イタズラもテクノロジーを活用し始める

色々なカルチャーやテクノロジーに触れる機会が増え、視野がどんどん広がるジョブズでしたが、イタズラ好きな性格は変わらずでした。

この頃には、イタズラにもテクノロジーを活用するようになり、自宅の両親の寝室を盗聴しようとしたりしていたそうです。

1969年 – 14歳「スティーブ・ウォズニアックとの出会い」

スティーブ・ウォズニアックと出会いすぐに意気投合

ジョブズの右腕、スティーブ・ウォズニアック

1969年、ジョブズは友人ビル・フェルナンデスの紹介で、5歳年上のスティーブ・ウォズニアックと出会い、音楽の趣味や笑いのツボ、テクノロジーに興味があるなどの共通点からすぐに打ち解けたそうです。

また、いたずら好きであるところも共通していて、卒業式の最中に自作の垂れ幕を屋根から無断で吊るそうとしたり、自作した長距離電話機でバチカンにいたずら電話をかけたりしていたそうです。ウォズニアックと出会ったことで、いたずらの技術レベルが高まったのは間違いないようです。

部品ほしさにヒューレット・パッカードCEOに直接交渉

あるとき、ジョブズは周波数カウンターを作るためにヒューレット・パッカードのCEOの自宅に電話をかけて「足りない部品をください」と直接交渉。そして、その夏には周波数カウンターの組み立てラインでアルバイトをしていたそうです。

少年時代の頃から、実現したいことに向かうときは臆することなく突き進む性格だったことが分かるエピソードですね。

ブルーボックス販売でひと儲け

ウォズニアックが製作したブルーボックス

1971年頃。ジョブズとウォズニアックは一緒にイタズラするだけにとどまらず、ブルーボックスという不正に無料で長距離電話をかけられる装置を自作、販売して儲けていたそうです。

雑誌に掲載されていたブルーボックスについての記事を読んだことがきっかけでスタンフォード大学の図書館に忍び込んで技術資料を探し出し、それを元にウォズニアックがブルーボックスを自作してしまったとか。

ウォズニアックは装置を作れたことに満足しましたがジョブズは、それを1台150ドルで販売(材料費は40ドル)し、最終的には200台あまりを売りさばきました。しかし、あるとき銃で脅されてブルーボックスを奪われ、身の危険を感じた2人は販売をやめたそうです。

後年、ジョブズは「このブルーボックス販売の経験がなければアップルが誕生することはなかったのは100%確実だ」とかたったそうです。

“Stay hungry, stay foolish”「ホールアースカタログ」最終号の発行

ホールアースカタログの最終号

“Stay hungry, stay foolish” という一言とともに「ホールアースカタログ」の最終号が1971年6月に発行されました。この一言はジョブズの座右の銘となり、のちのスタンフォード大学卒業式の式辞でも引用されたことで有名です。

生涯を通して、なりふり構わず常に何かを追い求めて突き進んだジョブズの生き様をまさに表した一言だと思います。

1972年 – 17歳「始めたのガールフレンド、リード大学入学、そしてLSD」

スティーブ・ジョブズが通ったリード大学

初めてのガールフレンド、クリスアン・ブレナン

大学入学をする1972年の春、1歳年下のヒッピー風の少女、クリスアン・ブレナンと付き合い始めます。きっかけは一緒にアニメーション映画をつくったことで、ジョブズにとっては初のガールフレンドだったそうです。

のちに、子どもができるものの認知をしなかったりと複雑な事情に発展する2人ですが、この頃はまだそんなことをは知る由もありませんでした。

奇行が目立つ大学生活

1972年9月、ジョブズはオレゴン州のリード大学に入学します。スタンフォード大学などいわゆるアイビー・リーグではなく、なぜリード大学だったのか。

当時のリード大学は自由を重んじる校風であり、ジョブズ曰く「スタンフォードに行くのは自分のしたいことが分かっている学生だ。そんなものはアートではない」とのこと。要は、やりたいことはまだ明白ではけど自由に色々な面白いことをやりたかった、ということで大学を選んだようです。

大学ではユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの宗教から座禅やヒッピー文化などに傾倒。全く風呂に入らなかったり裸足で大学構内を歩くなどの奇行とも取れる行動も行っていたそうです。いくら自由な校風だからといって、さすがに浮いた存在だったのではないでしょうか。

マリファナ・LSDを始める

この頃からマリファナを始めたジョブズ。あるとき父親に見つかって大喧嘩になっても「マリファナはやめない」と頑なだったそうです。

マリファナだけでなくLSDも使用していたらしく、Business Insiderの記事によるとマリファナの使用は1973年から1977年の5年間に週に1~2回。LSDに関しては1972年から1974年までの間に15回程使用していたそうです。

LSDについては晩年「人生でトップクラスに重要な体験だった。人生を金儲けだけに費やすのではなく歴史という流れに戻すこと、人の意識という流れに戻すことの重要性に気づかせてくれた」と語るほどだったそうでです。

正直、筆者はジョブズの言っていることが理解できませんが、これらの体験がなければ今のアップルはなかったかもしれませんね。

1973年 – 18歳「大学を半年で中退」

半年で大学を退学

興味のない必修科目を嫌い退学するも18ヶ月もぐりで講義にでる

1972年9月に大学へ入学したジョブズでしたが、たった半年で中退してしまいます。本人曰く「両親が一生をかけて貯めた学費を意味のない教育に使うのに罪悪感を抱いた」とのことですが、興味のない必修科目を履修することが本当に退屈で嫌だったんじゃないでしょうか。

ただ、中退後もコカ・コーラの空き瓶拾いや心理学科の電子装置修理などで日銭を稼ぎながら大学キャンパスを放浪。ジョブズを心配してくれる教授からの勧めで興味のある哲学やカリグラフィーのクラスだけ聴講するもぐりの学生として18ヶ月も大学にいたそうです。

ちなみに、この時に学んだカリグラフィーが、のちにMac OSのタイポグラフィー(文字をデザイン要素として捉える手法や考え方)に大きく影響したそうです。

1974年 – 19歳「インドへの旅の旅費稼ぎのためにアタリ社へ」

映画「スティーブ・ジョブズ」より

インドへの旅費を稼ぐためにアタリ社へ入社

1974年2月、自分探しまっさかりのジョブズは、インドに導師を求める旅をしに行きたいと考え始めます。

インドまでの旅費を稼ぐために働くことを決めたジョブズは早速ビデオゲームを制作していたアタリ社を訪問。「雇ってくれるまで帰らない」と宣言して当時のアタリ社トップであるノーラン・ブッシュネルを引っ張り出して直接交渉したそうです。

ビデオゲームの父とも呼ばれているアタリ創業者のノーラン・ブッシュネル

そんなアグレッシブな行動が気に入られたのか、ジョブズはアタリ社の40人目の社員として採用され、時給5ドルの下級エンジニアとして働くことになりました。

不潔で尊大な無礼者だった

アタリ社に入社したあとのジョブズは髪は切らずに長髪、風呂には入らずサンダルや裸足で社内をうろつく不潔な姿や、誰に対しても尊大な態度で接していたため、技術部長のアラン・アルコーンをはじめ、大半の社員からは「失礼な奴」と思われていたそうです。

念願のインドへ。消息不明からの唐突の帰国

念願のインドへ

ジョブズは、ドイツ・ミュンヘンでの旅費込みのゲーム修理の仕事を終えて、そのままアメリカには戻らずに友人のダン・コトケとインドへ向かいました。アタリ社にはインド行きを知らせていなかったため、消息不明のような扱いだったそうです。

インドに到着したジョブズは到着早々に赤痢にかかって苦しんだり、坊主頭になったりしながらインドを放浪したそうです。

インドに渡って数ヶ月後の1975年初頭。唐突にアタリ社に戻ったジョブズは興奮しながらインドの思い出を語って周りの社員を驚かせました。ドイツに行って消息不明になった人が突然戻ってきて、しかもインドの話しを始めたら、それは驚きますよね。

インドで学んだ直感の重要性

数ヶ月のインドの放浪でジョブズは「直感の重要性」を学んだらしく、以下のように語ったそうです。

僕にとっては、インドに行ったときより米国に戻ったときのほうが文化的ショックが大きかった。インドの田舎にいる人々は僕らのように知力で生きているのではなく、直感で生きている。そして彼らの直感は、ダントツで世界一というほどに発達している。僕は、直感は知性よりも強力だと思っているし、このことが僕の仕事に大きな影響を与えた。

後年、フェイスブックの創業者マーク・ザッカーバーグにもインド旅行を勧めるほどなので、彼の人生に大きな影響を与えた経験だったことが分かります。アメリカに戻ってからは、曹洞宗の禅僧である鈴木俊隆と知野弘文を導師として禅を学んだそうです。

1975年 – 20歳「ウォズニアックが独力で「Apple I」を設計」

ウォズニアックが独力で設計した「Apple I」

ウォズニアックがマイクロコンピューターを独力で設計

当時、Altair 8800というコンピューター・キットが発売されて人気を博していましたが、ウォズニアックはこれよりも優れたコンピューターが自分で作れると考えて、独力でマイクロコンピュータを設計してしまいます。「ホームブリュー・コンピューター・クラブ」で発表されたこの設計図は絶賛されました。

これを見たジョブズはこのコンピューターを利用したビジネスを始めるべきだと主張し、アップル・コンピューターの歴史が動き出すことになるのでした。

夜中にこっそり仕事をウォズニアックにやってもらう

この頃、インドから戻ったジョブズは当時のアタリ社の代表ブッシュネルから直々に新製品「ブレイクアウト」(ブロック崩しゲーム)の回路の部品を減らす命を受けます。

減らした部品の数だけ報酬が増える美味い仕事でしたが、自分には不可能なことを察知したジョブズは友人のウォズニアックにこの仕事をやってもらうことにします。

当時、夜勤だったジョブズは部外者であるウォズニアックをこっそり社内に招き入れ、ゲームをしたり勝手に基盤を改造させたりしていました。その片手間にこの仕事を片付けてもらおうと考えたのです。

結果、ウォズニアックは見事仕事をやりとげました。報酬は山分けとしてウォズニアックに350ドルを渡したジョブズでしたが、実は報酬の総額は5000ドルでした。数年後にこの事がウォズニアックにバレて2人の間に少し確執が生まれたそうです。

ブッシュネルはウォズニアックが仕事を代りにやることを読んでいた

アタリ社の社長、ブッシュネル

「ブレイクアウト」の回路部品減らしの仕事は結局ウォズニアックが完遂しましたが、当時のアタリ社代表のブッシュネルはこうなることを予想していたと語っています。

優秀なエンジニアであるウォズニアックに手を動かしてもらうためにあえてジョブズを夜勤にしてウォズニアックを招き入れやすくしていたんだとか。

後年のインタビューで語ったとのことなので後付けなのかもしれませんが、それほどにウォズニアックは優秀だったということが分かります。

1976年 – 21歳「アップル・コンピューター・カンパニーを創業」

ロナルド・ウェインが手書きしたアップル最初のロゴ

ビジネスパートナーとして「アップル・コンピューター・カンパニー」を創業

ウォズニアックの設計したマシン「Apple I」を販売すべく、ジョブズは愛車のワーゲンを、ウォズニアックはHP製のプログラム電卓を売払い資金を集め、ロナルド・ウェインをメンバーに加えてカリフォルニア州のビジネスパートナーシップとして「アップル・コンピューター・カンパニー」を創業しました。

「アップル」の由来

「アップル・コンピューター」という社名の由来について、ジョブズ自身は、当時果実食主義を実践していたことやリンゴ農園から帰ってきた直後に「アップル」という響きが「楽しげで元気がよく威圧感もない。そして電話帳ではアタリの上に来る」ので採用した、と説明しています。

一方でウォズニアックは、社名についての真意は不明とした上で、ジョブズは音楽好きだったのでアップル・レコードから思いつたのかもしれないと語ったそうです。

バイトショップとの取引

Apple Ⅰ

「Apple I」の販路を確保するためにジョブズはコンピューター小売店「バイトショップ(Byte Shop)」の経営者ポール・テレルに「Apple I」のデモンストレーションし、1台につき500ドルで50台(合計で2万5000ドル)の注文を取り付けることに成功しました。

実はこの時、手持ちの資金は50台分のパーツを購入するには足りていなかったそうなのですが、バイトショップとの取引があることを電話で確認させるなどして、30日間の支払い猶予付きで50台分のパーツを購入することに成功したそうです。

その後、ジョブズの実家で急ピッチの組み立て作業が行われ、29日後に50台の「Apple I」を完成させてバイトショップに納品。報酬をもとに期限内にパーツの支払いも完了させたそうです。

なんともギリギリを攻めたジョブズ。話を聞いただけで胃が痛くなってきそうですが、彼自身はこの状況を楽しんでいたに違いありません。

最終的に200台余りが販売された「Apple I」

バイトショップに納品した50台の「Apple I」は、筐体やモニタ、キーボードなどはなく、各種部品がプリント配線板にハンダ付けされたむきだしの基板(マザーボード)の状態でした。

テレルは納品された現物が想像していたものと大きく違っていたため少しうろたえたそうですが、「それでも売れる」と確信していたのか約束の代金の2万5,000ドルを支払ったそうです。

「Apple I」は1976年7月から666.66ドルで販売され、最終的には200台以上が製造されました。

マイク・マークラからの融資で事業拡大

ジョブズ(左)とマークラ(右)

出資者を求めていたジョブズは、アタリ社に努めていた時の上司ノーラン・ブッシュネルに勧められて、セコイア・キャピタルのドン・バレンタインに会いました。

しかし、バレンタインは投資に興味を持たず、代わりに個人投資家であり若くして引退生活を送っていたマイク・マークラを紹介されました。

マークラはジョブズの野心とウォズニアックのエンジニアとしての才能に魅せられて、自身の個人的資産9万2000ドルをアップルに投資したほか、バンク・オブ・アメリカから25万ドルの信用供与を確保。アップル・コンピューター・カンパニーはこの資金を元手に事業を拡大させていきました。

1977年 – 22歳「新法人として「アップル・コンピューター」を設立」

当時はレインボーカラーだったアップルのロゴ

新法人「アップル・コンピューター」を設立

マークラからの資金融資もあり、1977年には新法人「アップルコンピュータ (Apple Computer, Inc.) 」が設立。約9カ月前に立ち上げたパートナーシップ(アップルコンピュータ・カンパニー)は新法人によって買収される形となりました。

意外にもジョブズは当時はCEOや社長ではなかったんですね。肩書は事業統括担当副社長だったそうです。アップルコンピュータの初代社長兼CEOには、マークラが引き抜いてきた経験豊富な経営者、マイケル・スコットが任命されました。

初代社長、マイケル・スコット

この頃には有名なレインボーカラーのリンゴのロゴマークを採用していました。レインボーカラーにした理由は「小さくても認識されるように」だったそうですが、色が多く使われているため制作費は高額になっていたようです。また、かじられたリンゴのマークは、「bite(かじる)」と「byte(バイト)。コンピューターが扱う情報量の単位」をかけているそうです。

社員番号で猛抗議

成し遂げたいものは何がなんでも成し遂げようとするジョブズ。ただ、「まさかそこまで」という有名なエピソードがあります。

初代社長に就任したマイケル・スコットはアップル・コンピューターを組織的にするため、社員番号を入れた社員証を発行することにしました。スコットは、これまでの功績からウォズニアックに社員番号「1番」を与えましたが、ジョブズは「1番」が自分に与えられなかったことに不満を感じ、スコットに猛抗議。スコットも譲らなかったため、最終的にジョブズには社員番号「0番」を与えられることで決着したそうです。

世界初のパーソナルコンピューター「Apple II」の発表

ウォズニアックが設計した「Apple II」

1977年4月16日から17日にかけて開催された第1回「ウェスト・コースト・コンピューター・フェア」で、世界初の個人向けコンピューターとして「Apple II」を発表しました。

62個のチップをすべて基盤内に仕込むことや、ネジはすべて裏にくるようにして見えなくするように指示したりなどジョブズの要求は高く、社員曰く「Apple II」の開発の過程でウォズニアックとジョブズの友情は弱まり始めたように思うと話していたそうです。

ちなみに、この製品には生涯のライバルとも言われるビル・ゲイツのMicrosoftが開発したOS・BASICが搭載されていました。

恋人ブレナンが妊娠するも認知せず

1977年には当時恋人だったブレナンが妊娠をしました。しかしジョブズは子供を認知せず父親になることを拒否。またブレナンも堕胎を拒否したため、2人は別れることになります。

ブレナンのお腹に宿った子どもを自分の子だと認知しなかったジョブズでしたが、翌年発足する次世代コンピューター開発のプロジェクト名にはその子どもの名前である「Lisa」と名付けるなど、内心では自分の子どもだと思っていたようです。

晩年、このプロジェクト名は娘の名前に由来していたことを本人も語っています。

1978年 – 23歳「Lisaの誕生」

娘の誕生

恋人ブレナンが女児を出産。「Lisa」と名付ける

1978年5月17日、オレゴン州でブレナンが女児を出産しました。ジョブズは「Lisa」と名付けて会いに訪れたりはしたそうですが結局、認知はせず、養育費の支払いも数ヶ月でやめてしまったそうです。

その割にプロジェクト名に「Lisa」と名付けるなど、しっかりと娘だと認識はしていたようで、それは周りからも明白だったことでしょう。

次世代コンピューター開発プロジェクト「Lisa」

1978年10月、「Apple II」を超える次世代のパーソナルコンピューターを開発するプロジェクト「Lisa」がアップル・コンピューター社内で発足します。

「Lisa」は娘の名前に由来していたのですが、当時のジョブズはまだ娘のことを自分の子どもだと認知していなかったためプロジェクト名の由来は「Local Integrated Software Architecture」の頭文字としていたそうです。

ただ、社内では娘の名前からだと噂はされていて、「Lisaは”Let’s Invent Some Acronym(Lisaは何の略かうまいこと言おう)” の略だ」というネタが流行ったそうです。

ウォズニアックはソフトウェア産業の発展に貢献

Disk Ⅱ

娘を認知しない割にプロジェクト名に娘の名前をつけたりと相変わらず話題の絶えないジョブズに対して、ウォズニアックは優秀なエンジニアとしての話題を作っています。

1978年1月、ウォズニアックはフロッピーディスクを使ってデータの入出力を行うディスクドライブ「Disk II」を開発しました。これはソフトウェア産業を大きく発展させる発明で、「Apple II」の開発と併せてソフトウェア産業発展の礎を築いたと言われています。

アップル・コアから商標権侵害で訴えられる

話題の絶えない1978年。アップル・コンピューターは、ビートルズが設立した持株会社アップル・コア社から商標権の侵害で訴えられます。

この訴訟は1981年に、「アップル・コンピューターは音楽事業へ参入しない、アップル・コアはコンピューター事業へ参入しない」とう条件とアップル・コンピューターからアップル・コアへ8万ドルが支払われて和解という形で決着しました。

しかしながら後年、皆さんもご存知の通りアップル・コンピューターは音楽事業にも参入していき、事あるごとにアップル・コアに訴訟を起こされることになります。

「僕らと一緒に宇宙を凹ませてみないか」

MacPaintなどのソフトウェア開発者ビル・アトキンソン

1978年、後に「Mac Paint」などのソフトを開発する自然写真家でありソフトウェアエンジニアのビル・アトキンソンがアップル・コンピューターのメンバーに加わります。

ビルを説得した時のジョブズの口説き文句は「僕らと一緒に宇宙を凹ませてみないか」だったそうです。「宇宙を凹ませる」というのは「世界を変える」という意味(ニュアンス)らしいです。

身だしなみを整え始めた

「そんな若者には誰も投資はしたくない」と自ら述懐するほど、当時のジョブズの身なりはひどいものだったそうです。ただ、この頃から積極的に会社のPRをしたり投資家に会う機会も増え、周囲からは「良いスーツを買え」「髪を切れ」など言われこともあり、徐々に身だしなみに気を使うようになったそうです。

1979年 – 24歳「ゼロックスのパロアルト研究所を無理やり見学」

ゼロックスのパロアルト研究所

ゼロックスのパロアルト研究所での体験から今後の開発の方向性を見出す

1979年12月、ジェフ・ラスキンに誘われてゼロックスのパロアルト研究所を訪れたジョブズは、GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)やビットマップスクリーン、マウスでコンピューターを操作をする技術を半ば無理やり見学。

これに大きな衝撃を受けたジョブズは「なぜこの技術をもっと何かに使おうと思わないんだ?これこそ革命的だ!」と大絶賛して今後の開発にも同じ機能をもたせることを考え始めたそうです。

ジェフ・ラスキンがMacintoshプロジェクトを開始

ジェフ・ラスキン

1979年、アップル・コンピューター社内では「Apple II」が一般ユーザーには複雑すぎると考えたジェフ・ラスキンがMacintoshプロジェクトを開始しました。

誰にでも簡単に扱えるノート代わりのコンピュータを目指していたMacintoshプロジェクト。のちにジョブズもこのプロジェクトに参加し、なんと乗っ取ることになります。

ちなみに、プロジェクト名のMacintoshは、リンゴの品種MaIntoshをもじったものだそうです。

娘をDNA鑑定

1979年の夏頃。ジョブズは新規株式公開も考慮して、娘リサの問題に決着をつけるべくDNA鑑定を受けました。鑑定結果は「父親である確率は94%」。裁判所からは養育費の支払いが義務付けられることになりました。

しかし、これを認めたくなかったのか「全米の28%の男がリサの父親である可能性がある」と触れ回っていたそうです。さすがにここまで来ると往生際が悪いと言わざるを得ないですね。

ジョブズの指示を「無理」と言った社員をクビにした

この頃のジョブズは非常に尖っていた時期だったと言えます。ある社員がジョブズが要求していたボールを使ったマウスの商品化について、「それは無理だ」といったことを耳にして、翌朝にはその社員をクビにしてしまったそうです。

デザイン思考、IDEOの誕生のきっかけをつくる

アップル・コンピューターが初めてマウスをデザインしたのもこの年てでした。ジョブズとデビット・ケリー、ジム・ユルチェンコによってデザインされたのですが、そのデザインのプロセスがのちに「デザイン思考」というフレームワークや、「IDEO(デザインコンサルティング会社)」の誕生のきっかけになったそうです。

1980年 – 25歳「株式公開で巨万の富を得る」

2億5600万ドルもの個人資産を得る

巨額の個人資産を得て長者番付に名を連ねる

1980年12月12日。「Apple II」の売れ行き好調なアップル・コンピューターは新規株式公開(IPO)を行います。当時において史上最高額の資金調達額を記録し、750万株を保有していたジョブズは約2億5600万ドルの個人資産を得ることに。これによって「フォーチュン」誌の長者番付に20代で名を連ねる事になりました。

余談ですが、この株式公開の4日前の12月12日はジョン・レノンが射殺された日です。

「Apple III」は売れ行き不振

「Apple III」

株式公開をする同年の5月19日には「Apple III」を発売していたアップル・コンピューター。「Apple III」は本来、輝くべき製品となるはずでしたが、売行き不振に陥りました。

「Apple I」や「Apple II」はウォズニアックが独力で設計したのに対し、「Apple III」は社内の製作委員会によって設計行ったため、プロジェクトが難航したことや、ジョブズが静音性に拘って放熱ファンを取り付けさせなかったことで、発熱による不具合が多発。発売当初から悪評が広まってしまったためでした。

約1年後に修正版が発売されるも、挽回するほどのインパクトは与えられず。「Apple III」プロジェクトは失敗に終わります。

ただし、売行きは振るわなかったものの階層化されたファイルシステムなどは、のちに大ヒットするMacintoshに受け継がれ、今日のファイルシステムの礎にもなるなど技術的な功績もありました。

Lisaプロジェクトから追放されMacintoshプロジェクトへ

当時のMacintosh開発チーム

1980年9月。ジョブズは社内での独断専行の立ち居振る舞いが理由で、社長のスコットやマークラによってLisaプロジェクトのメンバーから外されてしまいます。この時、研究開発担当兼副社長の肩書も剥奪され行き場を失ったジョブズは、Macintoshプロジェクトに参加を表明します。

ジョブズの突然かつ一方的な参加表明でしたがMacintoshチームは数人で動いていたチームでもあったのでジョブズを迎え入れました。この時ジョブズは、のちのちMacintoshプロジェクトをラスキンから完全に乗っ取ってしまうことを考えていたそうです。

1981年 – 26歳「社内での確執が顕著に」

社内での確執

ラスキンや社長スコットとの対立

Lisaプロジェクトから追放されてMacintoshプロジェクトに入ったジョブズ。ジョブズはハードウェアを担当し、ソフトウェア(OS)はラスキンが担当していました。

Lisaプロジェクトを上回るものにしようとするジョブズは徐々にソフトウェアに関しても口を出し始め、ラスキンと激しく対立することになります。

この頃には社長スコットとの関係も悪化していたジョブズ。結局は、マークラの判断で、スコットは解雇されれることになります。

スコットの解雇とスカリーの引き抜き

スコットがアップルを去ったため、マーケティングに長けた後任者を探す必要がでてきたジョブズは当時ペプシコーラの事業担当社長だったジョン・スカリーに目星をつけて引き抜きに動きます。

この時の口説き文句は今では有名になっています。

このまま一生砂糖水を売りつづけたいか?それとも世界を変えたいか?」
(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?)

ビル・ゲイツ、Macintosh向けのアプリケーション開発を約束

1981年には、生涯ライバルとなるビル・ゲイツにMacintoshのデモンストレーションを行います。デモンストレーションを受け、ビル・ゲイツはMac向けのソフトウェアを開発することを約束しました。

しかし、この頃から2人のコンピューターの今後についての考えは違っていました。ゲイツはコンピューターをビジネス目的で利用することを重視し、ジョブズはコンピューターを一般の人にとって役立つものにすることを重視していました。

IBM PC発売。挑戦的な態度を示すジョブズ

IBMのロゴに中指をたてるジョブズ

何かとIBMを目の敵にしていた当時のジョブズ。1981年当時、企業や研究機関向けのコンピューター市場を牛耳っていたIBMから個人向けコンピューターが発売された際には、「ようこそIBM。いやほんとに(Welcome IBM. Seriously)」という広告をウォールストリート・ジャーナルに掲載したこともありました。

また「IBMがこの競争に勝てば、コンピューターの暗黒時代がこれから20年は続くだろう。IBMを市場から追い出そう。こちらの準備はできている」というコメントを残したりもしています。よっぽどIBMが嫌いだったようです。

ちなみに、IBMのロゴの前で中指を立てている写真も有名ですが、これについてジョブズは以下のように語っています。

ここに、彼の自由な精神を象徴する、貴重な写真がある。1983年12月。初代Macintoshの発表直後、Macを特集記事にするという、Newsweekの取材を受けるため、僕らはニューヨークを訪れた。この写真は、たまたまマンハッタンを歩いていた時、同行していたフランス人の旅行代理店のスタッフが、思いつきで撮ったものだ。どういうわけかその写真は僕が持っていることになった。僕が本を出すときに、編集者はこの写真を使わせて欲しいと言ってきた。だけど、許可するにはさすがに怖かった。だって、あの時は、MacのCPUは、IBMが作っていたからね。

さすがのジョブズにも怖いものはあったんですね。

1982年 – 27歳「Macintoshプロジェクトを乗っ取る」

ラスキンがアップルを去り、Macintoshプロジェクトを乗っ取る

Macintoshプロジェクト内で対立が激化していたジョブズとラスキン。1982年3月、ついにラスキンが役員に対して「ジョブズを取るか、自分を取るか」選択を迫りました。

結局、役員たちはジョブズをMacintoshプロジェクトに押し込めておくほうが会社にとって都合が良いと判断し、ラスキンはアップル・コンピューターを去ること。ジョブズがMacintoshプロジェクト参加当初から考えていたプロジェクトの乗っ取りが完了しました。

初代Macintosh、こだわりすぎて開発難航

スケルトンで有名になる初代Macintoshの筐体は「Apple IIc」や「Macintosh SE」のデザインを行なったパートナーのフロッグデザインではなく、社員のジェリー・マノックによってデザインされました。

この初代Macintoshにはシンプルな美しさが必要だと考えたジョブズ。筐体は電話帳(30cm四方)と同程度の大きさであるべきだと提案。フロッピードライブのイジェクトボタンをなくしてオートイジェクトを導入させるにとどまらず、拡張スロットを頑なに採用しなかったり、果ては基板のパターンが美しくないという理由で設計案を何度も却下したりしました。

筐体のサイズからボタンや拡張スロット、基盤のパターンにまで、こだわりにこだわり抜いた結果、開発は難航。Macintoshが発売されるのは結局1984年1月のことでした。

ビル・ゲイツ、Macソフト開発の裏でWindows開発を進める

1982年、ジョブズはゲイツにアップル・コンピューターが作ったマウスを使用するビジネスソフト以外は制作しないことを約束させました。しかし、ビル・ゲイツはMac向けのソフトウェアを開発する一方でWindowsの開発を進めました。

1983年 – 28歳「ジョン・スカリーが社長に就任」

ジョン・スカリー

ジョン・スカリーが新社長に就任

1981年にジョブズとの確執が原因で退任したスコットに代り、かねてより口説いていたジョン・スカリーがアップル・コンピューターの新社長に就任しました。

当時のジョブズとスカリーは「ダイナミック・デュオ」と呼ばれるほど強力なパートナーシップを組み、経営を推し進めたそうです。

Macintoshチームの海賊旗

海賊旗を掲げるMacintoshチーム

この頃、Macintoshチームは海賊旗を掲げるようになります。この海賊旗はジョブズの「海軍に入るより、海賊であれ(「It’s better to be a pirate than to join the navy)」という精神に基づいて掲げていたもので、週に80時間や90時間も働くことがあったMacintoshチームを奮い立たせるためのものでもありました。

ちなみに、Macintoshチームがビルの上に掲げた海賊旗をライバルのLisaチームが盗むもそれを取り返す、という珍エピソードがあったそうです。

ビル・ゲイツ、Windowsを発表

若かりし頃のビル・ゲイツ

1983年、ジョブズのライバルであるビル・ゲイツは、かねてより開発を進めていたWindowsを発表しました。この時、ビル・ゲイツは「1984年に市場のIBMコンピューターの90%以上はWindows OSになる」とコメントしたそうです。実際にこの後、DellやIBMの多数のPCメーカーとライセンス契約を結びMicrosoftがPCマーケットを独占していくことになります。

Macintoshの開発が遅れ、先を越された形となったジョブズは相当に腹を立てたことでしょう。

1984年 – 29歳「Macintosh、伝説的なCMで発表される」

今や伝説となったMacintoshのCM

Macintoshが発表され業界を震撼

1984年1月、Windowsに先を越されながらもMacintoshが、史上最も有名と言われるスーパーボウルのCM枠で発表されました。このCMはリドリー・スコット監督のもと制作され、今や伝説と謳われるほどに大絶賛されました。

実はこのCM。放送前にはアップル・コンピューターの役員全員が猛反対したそうです。購入したスーパーボウルのCM枠を売りに出せとまで言われたそうですが、結局買い手がつかなかったため放送された、という逸話もあります。

CMは好評だったが売上はいまいち、赤字にも

左からジョブズ、スカリー、ウォズニアック

CMが大好評で、売上のすべり出しは好調だったMacintoshでしたが、バグの発生と独自の目立った機能がなかったため、1984年の後半には売上が落ち始めます。

また、ジョブズがMacintoshの需要予測を大幅に見誤ったこともあり、アプルコンピュータは在庫を多く抱えることになり初めての赤字を経験することになり、従業員の5分の1のレイオフ(人員削減)も行われました。

ジョブズとウォズニアックの間に確執が生じる

1984年、ウォズニアックはアルコーンに出会い、アタリ社で報酬を山分けした仕事が、実は山分けではなくほとんどをジョブズが持っていってしまったことを知らされます。

この出来事がきっかけでジョブズとウォズニアックの間にしばらく確執が生じました。ちなみに、ジョブズは最後まで報酬を多くわけていたことを認めなかったと言われています。

1985年 – 30歳「ジョブズ、アップルコンピューターを退職」

現在のアップルの社屋

全ての業務から解任され、自ら辞職

1985年、ジョブズはなんと自ら創業したアップル・コンピューターを追放されるような形で退職します。

1985年4月、社長スカリーは、ジョブズがアップル・コンピューターを混乱させていると考え、Macintoshチームリーダー及び副社長からジョブズを解任することを取締役会で要求。これは全会一致の承認されました。

これを察知したジョブズは、スカリーが中国出張している間にスカリーを追放することを画策。しかし、スカリーがこれを察知して中国出張をキャンセルし、1985年5月24日に緊急で重役会議を開催します。

重役会議でスカリーはジョブズの画策を暴露し、自分を選ぶかジョブズを選ぶか選択を迫りました。結果、重役全員がスカリーを支持し、その後に開催された取締役会もスカリーを支持。そして1985年5月31日。ジョブズは全ての業務および副社長から解任され、実権を持たない名目上の会長職を与えられることとなりました。

その後、社内で何もすることができないことに絶望するジョブズでしたが、新たに教育関連に特化したコンピューターの開発に魅力を感じ、1985年9月13日にアップル・コンピューターを完全退職することになりました。

新会社NeXTを設立

NeXTを設立したジョブズ

アップル・コンピューターを退職したジョブズは、教育関連に特化したコンピューターを開発すべく新会社NeXTを設立します。

きっかけは、生物学者ポール・バーグと難しいDNA組み換え実験をコンピューターにシミュレーションさせることや高等教育のためのコンピューターという構想については話したことでした。

構想を実現するためにジョブズはアップル・コンピューターを退職、当時所有していた約650万株のアップル・コンピューター株をすべて売却したそうです。

ちなみに、退職時にアップル・コンピューターから何名か引き抜いたことでアップル・コンピューターと揉めることになったそうです。実現したいことのためにはなりふり構わない、さすがジョブズというエピソードですね。

第一回アメリカ国家技術賞が贈られる

アメリカ国家技術賞の受賞者に贈られるメダル

1985年、当時の大統領であるロナルド・レーガンより、ジョブズとウォズニアックに第一回アメリカ国家技術賞(技術分野ではアメリカ合衆国で最高の栄誉とされている賞)が贈られました。ジョブズの他には技術革新を牽引してきたとしてベル研究所などが受賞しました。

ちなみに、この受賞の前後でジョブズはウォズニアックがアップル・コンピューターを退職していたことを知ったそうです。親友だったのに退職したことを知らなかったんだとか。当時の2人の間にはもう昔のような絆はなかったことが分かりますね。

シャープ東京支社へ訪れる

この頃に、ジョブズは日本のシャープ東京支社を訪れ、東京支社長の佐々木正に今後の電卓についての相談、「これからはネットワークの時代になるからポータブル性のあるIT機器が求められるようになる」という助言をもらっていたそうです。

ちなみに、その時のジョブズの格好は、ジーンズにTシャツ姿、風貌は髪の毛やひげが伸び放題のヒッピーそのものだったそうです。

1986年 – 31歳「ピクサーを設立」

ピクサー・アニメーション・スタジオ

ルーカスフィルムのCG部門を買収、ピクサーを設立する

1985年夏にジョージ・ルーカスのスタジオ、ルーカスフィルムのCG部門を訪れていたジョブズは、そのCG技術に魅力を感じていました。そして1986年にはCG部門を1000万ドルで買収し、ピクサーを設立しました。

トイ・ストーリーなどの大ヒットを生むピクサーですが、ジョブズはのちに「映画作りにどれだけのお金が掛かるか知っていたらピクサーは買わなかった」と言っていたそうです。

ちなみに、ジョブズがCG部門を買収してくれたおかげで、当時離婚費用が必要だったジョージ・ルーカスはスターウォーズの株を売らずに済んだそうです。

生母ジョアンとの再会

1986年、ジョブズの養母であるクララが亡くなったことがきっかけで生母ジョアンと再会。その時に実の妹モナ・シンプソンがいることを知り、初対面も果たすことになったそうです。

1988年 – 33歳「NeXTが初代NeXTcubeを発表」

NeXTcubeをプレゼンするジョブズ

初代NeXTcubeの発表

1988年10月12日、かねてより開発をしていたNeXTcubeがやっと発表されました。発表会は3000人の聴衆のもと、3時間にわたり行われました。

もともとは1987年までには発表される予定でしたが、ロゴや筐体のデザインにこだわったり、凝った仕様のOS(NEXTSTEP)の開発したりと資金と時間を過剰に費やしたため発表が遅くなったのですが、ジョブズはこれに対して「遅くなった?5年は先を行っているよ」とコメントしたそうです。

1990年 – 35歳「将来の妻との出会い」

ローレンとジョブズ

スタンフォード大学で将来の妻と出会う

スタンフォード大学でゲスト講師として講義を行ったジョブズは、生徒の一人だったローレン・パウエルと出会いました。講義の中、ジョブズが突然ローレンの隣に座ったことがキッカケだったそうです。

当時ローレンは27歳。8歳の差がありましたが、そんなことを気にせず恋に落ちた2人。講義が終わったあとにミーティングをすっぽかして夕飯を食べに出かけたそうです。

1991年 – 35歳「結婚。そして長男誕生」

ジョブズとローレンの挙式の様子

出会った翌年に結婚。同年に長男も生まれる

1990年に出会ったジョブズとローレンでしたが、翌年の1991年3月18日に結婚。挙式はヨセミテ国立公園のアワニーホテルにて、ジョブズがグル(老師)と仰ぐ日本人禅僧の乙川弘文の立会いのもとでささやかに行われました。

同年の9月には長男リード・ポール・ジョブズが誕生しました。この頃には元恋人の娘リサも一緒に暮らすようになっていたそうです。ちなみに、長男の名前である「リード」は母校であるリード大学に因んだと言われています。

ピクサーがディズニーと契約

1991年、ピクサーはディズニーにCGアニメーション映画の制作の売り込みを行います。同年3月3日には3本の映画作品の契約を結びました。この結果、4年後に大ヒットとなるフルCGのアニメーション映画「トイ・ストーリー」が制作されることになりました。

1993年 – 38歳「NeXT、ソフトウェア事業に特化」

NeXTが事業売却やレイオフを行いソフトウェア事業に特化

NeXTcubeを発表したNeXTですが売上はそれほど大きくありませんでした。そのため、530人の社員のうち230人をレイオフ(人員削減)し、ハードウェア部門はキヤノンに売却することでソフトウェア開発事業に特化する体制をとりました。

その後、株式公開に失敗するなど会社としてはあまり功績がないようにも見えますが、技術的な功績は残していて、たとえば開発したOSであるNEXTSTEPはMacのOSの基盤となったり、世界初のWebサーバーとしてNEXTcubeが利用されたりしました。

1995年 – 40歳「ピクサー上場で再び巨万の富を得る」

株式公開を発表するジョブズ

トイ・ストーリーの大ヒットとピクサー上場で巨万の富を得る

1995年、世界初のフルCGのアニメーション映画「トイ・ストーリー」が公開されました。トイ・ストーリーは3億6000万ドルの収益をあげる大ヒットを記録し、ピクサーは株式を公開し上場します。これによりジョブズが保有していたピクサー株80&の価値は6億ドルに跳ね上がりました。

再び巨万の富を得たジョブズでしたが、これまでに5000万ドル以上をピクサーに投資していたため「こんなにお金がかかるなんて思わなかった」とコメントしたそうです。

ちなみに、この年に第2子で長女のエリン・シエナ・ジョブズ(Erin Seinna Jobs)が誕生しています。

Windows95が発売。アップル・コンピューターのシェアが激減

1995年8月24日。MicrosoftからWindows95が発売されました。これによりアップル・コンピューターのシェアが激減することになります。ジョブズはこの時「アップルも自業自得だが、Microsoftが全てを支配してデスクトップPC市場は暗黒時代に入った」と語ったそうです。

アップル・コンピューターの買収を画策する

ハワイで家族ぐるみの休暇中、オラクルCEOラリー・エリソンと海岸を散策しながら、アップル・コンピューターの買収の話が持ち上がりました。当時アップル・コンピューターは経営が傾いている状況でもあったからです。

投資金として300万ドル用意してジョブズの復権を図るというプランでしたが、結局、ジョブズは「自分は乗っ取りに行くタイプではない。向こうから会社に戻ってくれと言われば別だけどね」と言って実行はしなかったそうです。

のちに、ジョブズが設立したNeXTを買収する形でジョブズのアップル・コンピューターへの復帰が実現するのですが、もしかしたらこのときには既にこの筋書きを想像していたのかもしれませんね。

1996年 – 41歳「ジョブズ、アップル・コンピューターに復帰」

アップル・コンピューターに復帰した当時のジョブズ

アップル・コンピューターがNeXTを買収。ジョブズはアップル・コンピューターへ復帰

1996年11月、アップル・コンピューターは次期OSの社内開発が上手くいかず、外部に基盤技術を求めていました。その話しを耳にしたジョブズはアップル・コンピューターにNeXTが開発したOSであるNEXTSTEPを売り込み行きます。

結果、アップル・コンピューターは次期OSの基盤技術を採用することになり、それにともなってNeXTを4億ドルで買収、ジョブズは顧問としてアップル・コンピューターに復帰することが決まりました。

ちなみに、当時のジョブズは性格や仕事の仕方が丸くなっていたそうです。NEXTSTEPをプレゼンテーショを受けた当時のCEOだるアメリオは「愛想の良い、非常に効果の持てるものだった」というコメントをしていたりします。

ジョブズ自身も、人をもっと信頼できるようになったおかげだと話していたそうです。創業したアップル・コンピューターから追放されたり、家族が増えたりと様々な経験を通して、人として丸くなったのかもしれませんね。とはいえ、後年も口の悪さは健在だったようです。

1997年 – 42歳「アップル・コンピューターの再建を軌道に乗せる」

CEOや経営陣を総入れ替え

当時、経営が傾いていたアップル・コンピューターに復帰したジョブズはまず「いまだにアップル・コンピューターの業績を向上させられていない」として全ての役員を味方につけて、CEOのアメリオを退任させました。この時、経営陣はジョブズにCEO就任を要請するも多忙を理由に断り暫定CEOとなったそうです。

続いて社員の士気をあげるために従業員のストック・オプションの引き下げを役員に提案するも否認されたため、筆頭株主の立場を利用して役員に辞任を迫り、マークラを含む経営陣のほとんどを辞任させ、後任はオラクルのエリソンなどジョブズと関係が深い人達が選ばれました。

Microsoftと業務提携、レイオフなど素早い施策展開で再建を軌道に乗せる

Microsoftとの業務提携を発表。アップルのイベントにビル・ゲイツがゲストとして登場

1997年、ジョブズはアップル・コンピューターの経営を再建するためにさまざまな施策を打ち出しました。

7月には、ライセンス事業を停止させるために、MacOS7.7 としてリリースされるはずだったものをMacOS8としてリリースしました。1994年から行っていた他社へのMac OSのライセンス契約がOS7に限られることを逆手にとったのです。

8月には、なんとライバルであるMicrosoftと業務提携を発表しました。この業務提携は、Microsoftから1億5000ドルの資金とMac版のMicrosoft OfficeとInternet Explorer for Macの提供の2つを柱とするものでした。

11月にはオンライン販売ストア「Apple Store」をオープンし、Macだけでも10種類以上あった製品のうち7割を製造停止して、開発をPower Mac(プロ用デスクトップPC)、PowerBook(プロ用ノートPC)、iMac(一般ユーザー向けデスクトップPC)、iBook(一般ユーザー向けノートPC)の4分野にしぼりました。

他にも、パワー・コンピューティングを買収してインターネット直売事業へ参入したり、大規模なレイオフ(人員削減)を行うなど素早く施策を展開し、経営再建を軌道に乗せました。

1998年 – 43歳「斬新なデザインのiMacが大ヒット」

スケルトンデザインを採用し大ヒットした初代iMac

トライスルーセント(スケルトン)のiMacが大ヒット

1998年5月6日、アップル・コンピューターは「Mac=アイボリーの箱」というイメージ大きく刷新するトライスルーセント(スケルトン)の筐体のデザインを採用した初代iMacを発表します。

同年の8月5日から販売された初代iMacは年末までに80万台が販売され、大ヒットとなります。

ちなみに同年、次女のイヴ・ジョブズが誕生し、またジョブズが亡くなった後にアップルのCEOとなるティム・クックが入社したそうです。

1999年 – 44歳「無線LANシステムを発表、大絶賛される」

貝殻に似せた形状のポータブルPC「iBook」

無線LAN内蔵のiBookを発表、大絶賛される

1999年7月21日、「iMac to go(持ち運べるiMac)」のコンセプトのもと、一般ユーザー向けのノートPC「iBook」を発表しました。

クラムシェルという貝殻に似せた形状、iMacを踏襲した半透明で曲線の多い筐体にポップなカラーは好評でしたが、特にジョブズが「ワン・モア・シング(One more thing)」として発表した無線LANが内蔵されている点が特に評価され大絶賛されました

iMac DV、iMovie を発表するもあまり売れず

1999年10月5日。サンフランシスコで開催されたイベントでジョブズは、ビデオカメラと接続できるiMac DVと映像編集ソフトiMovieを発表しました。

発表の際には、イベントの2日前に亡くなったソニーの創業者である盛田昭夫を「Sonyはコンシューマエレクトロニクス市場を創りあげた。トランジスタラジオから始まり、トリニトロンテレビ、ビデオ、Walkman、そしてCD…」と讃え「天国の盛田さんが、今日の発表を喜んでくれればいいと思う」とも語ったそうです。日本人として、なんだか誇らしくなるエピソードですね。

ただ、このiMac DVはあまり売れませんでした。理由は、当時のインターネットは映像ではなく音楽に関して発展を遂げようとしていたからです。

2000年 – 45歳「正式にアップル・コンピューターのCEOに就任」

正式にアップル・コンピューターのCEOに就任

2000年1月5日のマックワールドにて、Mac OS X の発表の最後に「ワン・モア・シング(One more thing)」として暫定CEOからCEOになったことを発表しました。

デジタル音楽ブームに乗り遅れるもiTunesを開発する

音楽ファイル共有サービス「Napster」

2000年当時、世間ではインターネットでmp3(楽曲データ)をダウンロードして音楽を楽しんだり、CDに焼いてWalkmanで外で音楽を楽しむスタイルが、主に大学生を中心に爆発的に広がり始めました。

mp3再生ソフトとして普及したWinAmpのユーザー数は2500万人にのぼり、音楽共有を主目的にしたファイル共有サービスのNapsterのユーザー数は2000万人を超えていたほどです。

この状況を目の当たりにして、完全に乗り遅れたと感じたジョブズは「自分がアホに思えたよ。必死で追いつかなきゃいけなかった」と「Fortune」誌のインタビューにコメントしたそうです。

ブームに追いつこうとしたジョブズは、元アップル・コンピューター社員が作ったmp3再生ソフトSoundJamを買収、誰にでも使えるように必要な機能にだけ絞らたiTunesへと昇華させました。

2001年 – 46歳「iTunesとiPodで音楽事業に本格参入」

iTunesの画面。当初のキャッチコピーは「Rip. Mix. Burn.」だった

iTunesの発表とデジタルハブ構想

2001年1月9日、mp3ブームにやや遅れる形でアップル・コンピューターはiTunesを発表。当時、ITバブル崩壊の後はPCは売れなくなるのではないかという意見も増えていく中、Macintoshが携帯音楽プレイヤーや携帯電話、デジタルカメラなどデジタル機器のハブになるという「デジタルハブ構想」を語りました。

ちなみに、Windows版のiTunesの開発に対して「自分の目の黒いうちはiPodをWindowsでは使わせない」と頑なに拒んでいたそうですが、社員が粘り強く説得した結果、「君たちの馬鹿げた話は聞き飽きた。勝手にしろ」と言って開発を認めたそうです。

東芝の超小型ハードディスクとソニーのポリマー電池でiPod開発を推し進める

初代iPod

2001年2月、東京マックワールドの基調講演のために来日していたジョブズとハードウェア部門を統括していたルビンシュタインは、東芝の超小型ハードディスクのことを知り、「音楽配信とmp3プレイヤーを一体にしたサービスで音楽業界に革命を起こす」とうい構想が実現できると確信したそうです。

実は超小型ハードディスクを開発した東芝自体はこのハードディスクを何に使えばいいのか見当もついていなかったそうです。

その後、製品の薄型化に重要な薄型電池としてソニーの福島工場にあったポリマー電池を採用し、iPodの開発が本格的にスタートさせ、同年10月23日には「1000曲をポケットに」というキャッチフレーズのもと、初代iPodを発表しました。

初の直営店「Apple Store」をオープン

Apple store1号店を紹介するジョブズ

2001年5月19日、アップルコンピューターは初の直営店「Apple Store」をオープンしました。この直営店はジョブズがソニーのショールームに着想を得て展開されました。

ストアの開発段階で社員が「ジーニアスバー」の提案をすると「そんなものはありえない」と言いつつもすぐに商標登録したり、「製品別ではなく人々がしたいことを中心にレイアウトするべき」という指摘に激怒するも、誤りを認めてレイアウトを作り変えたりといったジョブズらしいエピソードがあります。

2003年 – 48歳「膵臓ガンの宣告を受ける」

膵臓ガンと宣告され、民間療法を試みるも回復せず

2003年10月、ジョブズは膵臓ガンだと宣告されます。ただ、診断当初は幸いにして治療可能な状態でした。医師や家族はすぐに手術を受けるように忠告しましたが、西洋的な医術を頑なに拒否して、ハリ治療やハーブ療法、光療法などの民間療法で完治を試みました。

しかし、民間療法も虚しく9ヶ月後の検査ではガンは大きくなっていることが分かり、2004年8月には摘出手術を受けることになりました。

iTunes Music Storeを発表

iTunes Music Store。2005年には日本でも提供が開始された

ガン宣告を受ける前の2003年4月28日。ジョブズはiTunes Music Store を発表し、同日にサービスをオープンしました。当時、ミュージシャンや音楽レーベルからの反発も出ていたもの、ジョブズ自らが赴いて説得するなどして、地盤を固めたそうです。

iPadの開発へとつながるタブレット端末の開発がスタート

2003年にはのちにiPadの開発へとつながるタブレット端末の開発が極秘裏にスタートしていたそうです。当時のジョブズはインタビューで「世の中はキーボードがほしいと思っている人が多いからタブレットはつくらない、タブレットには金持ちしか興味を示さない」と、開発とは真逆のことを語っていたそうです。

2005年 – 50歳「Stay hungry, stay foolish」

スタンフォード大学の卒業式の式辞をのべるジョブズ

「Stay hungry, stay foolish」スタンフォード大学での式辞

2005年、50歳となったジョブズはスタンフォード大学の卒業式に招待され式辞を述べることになりますが、この時のスピーチの内容は有名です。

式辞は「教育について」「アップルへの情熱と愛するアップルから追放された経験について」「自身のガン体験と死について」という3つのパートで構成され、式辞の最後は「Stay hungyr, stay foolish」という「ホール・アース・カタログ」最終号に綴られた一言を引用する形で締めくくられました。

この式辞は多くの共感を呼び、伝説のスピーチとして有名になりました。

2006年 – 51歳「ディズニーの筆頭株主になる」

ディズニーがピクサーを買収、ディズニーの筆頭株主になる

2006年、ディズニーがピクサーを買収し、ディズニーの完全子会社となりました。これによりジョブズはディズニーの個人筆頭株主になったと同時にディズニーの役員にも就任することになりました。

実はこの前々年の2004年にはピクサーがディズニーとの契約を打ち切ることを表明して、その際にジョブズは「ディズニーは恥ずかしくなるくらいダメな作品を作っている」と公言していました。

なんとも強気な発言をしているにも関わらず、筆頭株主になったりするあたりは、ジョブズにしかできない芸当だなと思います。

2007年 – 52歳「携帯電話の再定義。iPhone の発表」

初代iPhoneを発表するジョブズ

携帯電話を再定義したiPhoneを発表

2007年1月、「携帯電話を再定義した」として初代iPhoneが発表されました。この発表は世界を震撼させ、携帯電話の歴史を大きく動かす発表となりました。

また、このタイミングでアップル・コンピューター(Apple Computer Inc.)は社名をアップル(Apple Inc.)に変更しました。

同年9月には、無線LANを搭載したiPod touchやiPod nano、Apple TVなど次々に新プロダクトを発表し、まさにアップルが大きく時代を動かした年だと言えます。

2009年 – 54歳「過去10年間における最も優れた最高経営責任者に選ばれる」

過去10年間における最も優れた最高経営責任者に選ばれる

2009年11月、ジョブズは「フォーチューン」誌の「過去10年間における最も優れた最高経営責任者」に選ばれました。

この頃にはガンの進行によって体重も体重も落ち、痩せた姿からメディアからも心配の声が上がる状態でしたが、ガンについてはまだ公表していませんでした。

ただ、妻ローレンはウォルター・アイザックにジョブズがガンであること、伝記を書くなら今しかないことを告げ、伝記の執筆が開始されたそうです。

2010年 – 55歳「iPadの発表」

初代iPadの発表をするジョブズ

iPadが発表され、電子書籍ビジネスが活性化される

2010年1月27日、「魔法のような革命的なデバイス」としてiPadが発表。4月3日に販売開始したiPadは初日で30万台が販売される大ヒットとなりました。

iPhoneの機能をベースに雑誌サイズの画面を備えたiPadは電子書籍ビジネスを活性化することになり、のちにKindleなどの競合を産み出すキッカケにもなりました。

2011年 – 56歳「iPhone4Sの発表直後に死去」

息を引き取ったジョブズの自宅

iPhone4Sの発表の翌日に死去

2011年、ジョブズのガンは進行を続け、1月17日には3度目となる病気療養のための休養をすることを発表します。休養中もiPad2の発表会に登壇するなどの活動を行っていました。

また、6月6日には基調講演でiCloudのプレゼンテーションを行っていましたが、これが生涯最後のの基調講演となりました。アップルの時価総額が世界一になった8月にはいよいよ体調が悪くなり、CEOを辞任することになったのです。

そして、iPhone4Sが発表された翌日の10月5日15時頃、パロアルトの自宅で家族に看取れられながら56年の人生に幕を下ろしました。最後の言葉は“Oh, wow”だったそうです。

スティーブ・ジョブズの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

スティーブ・ジョブズ

ジョブズの妻ローレンから依頼されたウォルター・アイザックが著者のスティーブ・ジョブズの伝記です。ジョブズ本人や家族、関係者へのインタビューを中心に書かれた伝記で、ベストセラーにもなりました。ジョブズの良いところも悪いところも知れる、ジョブズの入門書としては最適な本です。

アップル・コンフィデンシャル2.5J

アップルに関する出来事が日付や時間など詳細に記述された本です。ドラマチックな内容は少なく、またジョブズ個人というよりもアップルに関する出来事がメインに淡々と記載されています。

スティーブ・ジョブズの王国 ― アップルはいかにして世界を変えたか?

Time詩のシリコンバレー担当記者だったこともあるマイケル・モリッツが著者のジョブズの生涯を綴った伝記です。ジョブズ本人に焦点をあてた本のため彼にまつわるエピソードや名言を多く知ることができます。

レボリューション・イン・ザ・バレー ―開発者が語るMacintosh誕生の舞台裏

初代Macintoshの開発者が開発の過程を綴った本です。ジョブズの生涯全てについての内容ではないものの、開発中にあった逸話などを現場の100人くらいの人から集めた内容のため、当時の開発現場の空気を味わえる本です。

おすすめの動画

ドキュメンタリー スティーブ・ジョブズ VS ビル・ゲイツ ~ライバルたちの闘い~

スティーブ・ジョブズとビル・ゲイツの半生を比較しながら解説されている動画です。2人の人生を平行して解説されているだけでなく当事者の本人たちのインタビューも交えているため最初にこの動画を見ると他の書籍などの情報がよりイメージしやすくなる内容となっています。

スティーブ・ジョブス 伝説の卒業式スピーチ(日本語字幕)

ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で行った伝説とも言われているスピーチの動画です。自分の生涯を振り返りながら、教育について、情熱や愛、そして死について語りかける内容は感銘を受けます。

iPhone Keynote 2007 by Steve Jobs

2007年、初代iPhoneが発表された時のプレゼンテーションの動画です。ジョブズが以下にプレゼンテーションが上手かったかが分かるとともに、当時の興奮や熱気も伝わってくる動画です。

おすすめの映画

スティーブ・ジョブズ(2013年版)

2013年に公開されたスティーブ・ジョブズの伝記を元にした映画作品です。ジョブズにそっくりと言われていたアシュトン・カッチャーが主演をしていて、当時の様子を感じることができる作品です。

スティーブ・ジョブズ(2015年版)

2013年に公開された「スティーブ・ジョブズ」と題材は同じですが、前作がジョブズの生涯についてドラマチックに描いたのに対して本作では、MacintoshやiMacといった節目となる発表会に焦点を当てて、ジョブズの激しい性格や葛藤など描いた作品です。

関連外部リンク

スティーブ・ジョブズについてのまとめ

近年最も世界を変えてきた人物の一人、スティーブ・ジョブズの生涯を振り返りました。年表にしてみると特に80年代から90年代は1年の間で状況が目まぐるしく変わるような動乱の生涯を送っていたことが分かります。

人としては破綻しているジョブズかもしれませんが、結局は自分のやりたいことに妥協せずに生きた結果、偉業をなし得たけども周りとの衝突も尋常じゃなかったんだと思います。

「ジョブズの模倣は危険」と世界の専門家も言っていることですし、彼のようにまでは振り切らないまでも、彼の遺した言葉を時折思い出しながら人生を大切にしたいな、と思いました。

この記事がどなたかのやる気や生きる気力、活力に少しでもつながれば幸いです!

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