スティーブ・ジョブズとはどんな人?生涯を簡単に解説【功績や年表も紹介】

1975年 – 20歳「ウォズニアックが独力で『Apple I』を設計」

ウォズニアックが独力で設計した「Apple I」

ウォズニアックがマイクロコンピューターを独力で設計

当時、Altair 8800というコンピューター・キットが発売されて人気を博していましたが、ウォズニアックはこれよりも優れたコンピューターが自分で作れると考えて、独力でマイクロコンピュータを設計してしまいます。「ホームブリュー・コンピューター・クラブ」で発表されたこの設計図は絶賛されました。

これを見たジョブズはこのコンピューターを利用したビジネスを始めるべきだと主張し、アップル・コンピューターの歴史が動き出すことになるのでした。

夜中にこっそり仕事をウォズニアックにやってもらう

この頃、インドから戻ったジョブズは当時のアタリ社の代表ブッシュネルから直々に新製品「ブレイクアウト」(ブロック崩しゲーム)の回路の部品を減らす命を受けます。

減らした部品の数だけ報酬が増える美味い仕事でしたが、自分には不可能なことを察知したジョブズは友人のウォズニアックにこの仕事をやってもらうことにします。

当時、夜勤だったジョブズは部外者であるウォズニアックをこっそり社内に招き入れ、ゲームをしたり勝手に基盤を改造させたりしていました。その片手間にこの仕事を片付けてもらおうと考えたのです。

結果、ウォズニアックは見事仕事をやりとげました。報酬は山分けとしてウォズニアックに350ドルを渡したジョブズでしたが、実は報酬の総額は5000ドルでした。数年後にこの事がウォズニアックにバレて2人の間に少し確執が生まれたそうです。

ブッシュネルはウォズニアックが仕事を代りにやることを読んでいた

アタリ社の社長、ブッシュネル

「ブレイクアウト」の回路部品減らしの仕事は結局ウォズニアックが完遂しましたが、当時のアタリ社代表のブッシュネルはこうなることを予想していたと語っています。

優秀なエンジニアであるウォズニアックに手を動かしてもらうためにあえてジョブズを夜勤にしてウォズニアックを招き入れやすくしていたんだとか。

後年のインタビューで語ったとのことなので後付けなのかもしれませんが、それほどにウォズニアックは優秀だったということが分かります。

1976年 – 21歳「アップル・コンピューター・カンパニーを創業」

ロナルド・ウェインが手書きしたアップル最初のロゴ

ビジネスパートナーとして「アップル・コンピューター・カンパニー」を創業

ウォズニアックの設計したマシン「Apple I」を販売すべく、ジョブズは愛車のワーゲンを、ウォズニアックはHP製のプログラム電卓を売払い資金を集め、ロナルド・ウェインをメンバーに加えてカリフォルニア州のビジネスパートナーシップとして「アップル・コンピューター・カンパニー」を創業しました。

「アップル」の由来

「アップル・コンピューター」という社名の由来について、ジョブズ自身は、当時果実食主義を実践していたことやリンゴ農園から帰ってきた直後に「アップル」という響きが「楽しげで元気がよく威圧感もない。そして電話帳ではアタリの上に来る」ので採用した、と説明しています。

一方でウォズニアックは、社名についての真意は不明とした上で、ジョブズは音楽好きだったのでアップル・レコードから思いつたのかもしれないと語ったそうです。

バイトショップとの取引

Apple Ⅰ

「Apple I」の販路を確保するためにジョブズはコンピューター小売店「バイトショップ(Byte Shop)」の経営者ポール・テレルに「Apple I」のデモンストレーションし、1台につき500ドルで50台(合計で2万5000ドル)の注文を取り付けることに成功しました。

実はこの時、手持ちの資金は50台分のパーツを購入するには足りていなかったそうなのですが、バイトショップとの取引があることを電話で確認させるなどして、30日間の支払い猶予付きで50台分のパーツを購入することに成功したそうです。

その後、ジョブズの実家で急ピッチの組み立て作業が行われ、29日後に50台の「Apple I」を完成させてバイトショップに納品。報酬をもとに期限内にパーツの支払いも完了させたそうです。

なんともギリギリを攻めたジョブズ。話を聞いただけで胃が痛くなってきそうですが、彼自身はこの状況を楽しんでいたに違いありません。

最終的に200台余りが販売された「Apple I」

バイトショップに納品した50台の「Apple I」は、筐体やモニタ、キーボードなどはなく、各種部品がプリント配線板にハンダ付けされたむきだしの基板(マザーボード)の状態でした。

テレルは納品された現物が想像していたものと大きく違っていたため少しうろたえたそうですが、「それでも売れる」と確信していたのか約束の代金の2万5,000ドルを支払ったそうです。

「Apple I」は1976年7月から666.66ドルで販売され、最終的には200台以上が製造されました。

マイク・マークラからの融資で事業拡大

ジョブズ(左)とマークラ(右)

出資者を求めていたジョブズは、アタリ社に努めていた時の上司ノーラン・ブッシュネルに勧められて、セコイア・キャピタルのドン・バレンタインに会いました。

しかし、バレンタインは投資に興味を持たず、代わりに個人投資家であり若くして引退生活を送っていたマイク・マークラを紹介されました。

マークラはジョブズの野心とウォズニアックのエンジニアとしての才能に魅せられて、自身の個人的資産9万2000ドルをアップルに投資したほか、バンク・オブ・アメリカから25万ドルの信用供与を確保。アップル・コンピューター・カンパニーはこの資金を元手に事業を拡大させていきました。

1977年 – 22歳「新法人として「アップル・コンピューター」を設立」

当時はレインボーカラーだったアップルのロゴ

新法人「アップル・コンピューター」を設立

マークラからの資金融資もあり、1977年には新法人「アップルコンピュータ (Apple Computer, Inc.) 」が設立。約9カ月前に立ち上げたパートナーシップ(アップルコンピュータ・カンパニー)は新法人によって買収される形となりました。

意外にもジョブズは当時はCEOや社長ではなかったんですね。肩書は事業統括担当副社長だったそうです。アップルコンピュータの初代社長兼CEOには、マークラが引き抜いてきた経験豊富な経営者、マイケル・スコットが任命されました。

初代社長、マイケル・スコット

この頃には有名なレインボーカラーのリンゴのロゴマークを採用していました。レインボーカラーにした理由は「小さくても認識されるように」だったそうですが、色が多く使われているため制作費は高額になっていたようです。また、かじられたリンゴのマークは、「bite(かじる)」と「byte(バイト)。コンピューターが扱う情報量の単位」をかけているそうです。

社員番号で猛抗議

成し遂げたいものは何がなんでも成し遂げようとするジョブズ。ただ、「まさかそこまで」という有名なエピソードがあります。

初代社長に就任したマイケル・スコットはアップル・コンピューターを組織的にするため、社員番号を入れた社員証を発行することにしました。スコットは、これまでの功績からウォズニアックに社員番号「1番」を与えましたが、ジョブズは「1番」が自分に与えられなかったことに不満を感じ、スコットに猛抗議。スコットも譲らなかったため、最終的にジョブズには社員番号「0番」を与えられることで決着したそうです。

世界初のパーソナルコンピューター「Apple II」の発表

ウォズニアックが設計した「Apple II」

1977年4月16日から17日にかけて開催された第1回「ウェスト・コースト・コンピューター・フェア」で、世界初の個人向けコンピューターとして「Apple II」を発表しました。

62個のチップをすべて基盤内に仕込むことや、ネジはすべて裏にくるようにして見えなくするように指示したりなどジョブズの要求は高く、社員曰く「Apple II」の開発の過程でウォズニアックとジョブズの友情は弱まり始めたように思うと話していたそうです。

ちなみに、この製品には生涯のライバルとも言われるビル・ゲイツのMicrosoftが開発したOS・BASICが搭載されていました。

恋人ブレナンが妊娠するも認知せず

1977年には当時恋人だったブレナンが妊娠をしました。しかしジョブズは子供を認知せず父親になることを拒否。またブレナンも堕胎を拒否したため、2人は別れることになります。

ブレナンのお腹に宿った子どもを自分の子だと認知しなかったジョブズでしたが、翌年発足する次世代コンピューター開発のプロジェクト名にはその子どもの名前である「Lisa」と名付けるなど、内心では自分の子どもだと思っていたようです。

晩年、このプロジェクト名は娘の名前に由来していたことを本人も語っています。

1978年 – 23歳「Lisaの誕生」

娘の誕生

恋人ブレナンが女児を出産。「Lisa」と名付ける

1978年5月17日、オレゴン州でブレナンが女児を出産しました。ジョブズは「Lisa」と名付けて会いに訪れたりはしたそうですが結局、認知はせず、養育費の支払いも数ヶ月でやめてしまったそうです。

その割にプロジェクト名に「Lisa」と名付けるなど、しっかりと娘だと認識はしていたようで、それは周りからも明白だったことでしょう。

次世代コンピューター開発プロジェクト「Lisa」

1978年10月、「Apple II」を超える次世代のパーソナルコンピューターを開発するプロジェクト「Lisa」がアップル・コンピューター社内で発足します。

「Lisa」は娘の名前に由来していたのですが、当時のジョブズはまだ娘のことを自分の子どもだと認知していなかったためプロジェクト名の由来は「Local Integrated Software Architecture」の頭文字としていたそうです。

ただ、社内では娘の名前からだと噂はされていて、「Lisaは”Let’s Invent Some Acronym(Lisaは何の略かうまいこと言おう)” の略だ」というネタが流行ったそうです。

ウォズニアックはソフトウェア産業の発展に貢献

Disk Ⅱ

娘を認知しない割にプロジェクト名に娘の名前をつけたりと相変わらず話題の絶えないジョブズに対して、ウォズニアックは優秀なエンジニアとしての話題を作っています。

1978年1月、ウォズニアックはフロッピーディスクを使ってデータの入出力を行うディスクドライブ「Disk II」を開発しました。これはソフトウェア産業を大きく発展させる発明で、「Apple II」の開発と併せてソフトウェア産業発展の礎を築いたと言われています。

アップル・コアから商標権侵害で訴えられる

話題の絶えない1978年。アップル・コンピューターは、ビートルズが設立した持株会社アップル・コア社から商標権の侵害で訴えられます。

この訴訟は1981年に、「アップル・コンピューターは音楽事業へ参入しない、アップル・コアはコンピューター事業へ参入しない」とう条件とアップル・コンピューターからアップル・コアへ8万ドルが支払われて和解という形で決着しました。

しかしながら後年、皆さんもご存知の通りアップル・コンピューターは音楽事業にも参入していき、事あるごとにアップル・コアに訴訟を起こされることになります。

「僕らと一緒に宇宙を凹ませてみないか」

おしゃれな口説き文句を使った

1978年、後に「Mac Paint」などのソフトを開発する自然写真家でありソフトウェアエンジニアのビル・アトキンソンがアップル・コンピューターのメンバーに加わります。

ビルを説得した時のジョブズの口説き文句は「僕らと一緒に宇宙を凹ませてみないか」だったそうです。「宇宙を凹ませる」というのは「世界を変える」という意味(ニュアンス)らしいです。

身だしなみを整え始めた

「そんな若者には誰も投資はしたくない」と自ら述懐するほど、当時のジョブズの身なりはひどいものだったそうです。ただ、この頃から積極的に会社のPRをしたり投資家に会う機会も増え、周囲からは「良いスーツを買え」「髪を切れ」など言われこともあり、徐々に身だしなみに気を使うようになったそうです。

1979年 – 24歳「ゼロックスのパロアルト研究所を無理やり見学」

ゼロックスのパロアルト研究所

ゼロックスのパロアルト研究所での体験から今後の開発の方向性を見出す

1979年12月、ジェフ・ラスキンに誘われてゼロックスのパロアルト研究所を訪れたジョブズは、GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)やビットマップスクリーン、マウスでコンピューターを操作をする技術を半ば無理やり見学。

これに大きな衝撃を受けたジョブズは「なぜこの技術をもっと何かに使おうと思わないんだ?これこそ革命的だ!」と大絶賛して今後の開発にも同じ機能をもたせることを考え始めたそうです。

ジェフ・ラスキンがMacintoshプロジェクトを開始

のちにこのMacintoshプロジェクトにジョブズは参加する

1979年、アップル・コンピューター社内では「Apple II」が一般ユーザーには複雑すぎると考えたジェフ・ラスキンがMacintoshプロジェクトを開始しました。

誰にでも簡単に扱えるノート代わりのコンピュータを目指していたMacintoshプロジェクト。のちにジョブズもこのプロジェクトに参加し、なんと乗っ取ることになります。

ちなみに、プロジェクト名のMacintoshは、リンゴの品種MaIntoshをもじったものだそうです。

娘をDNA鑑定

1979年の夏頃。ジョブズは新規株式公開も考慮して、娘リサの問題に決着をつけるべくDNA鑑定を受けました。鑑定結果は「父親である確率は94%」。裁判所からは養育費の支払いが義務付けられることになりました。

しかし、これを認めたくなかったのか「全米の28%の男がリサの父親である可能性がある」と触れ回っていたそうです。さすがにここまで来ると往生際が悪いと言わざるを得ないですね。

ジョブズの指示を「無理」と言った社員をクビにした

この頃のジョブズは非常に尖っていた時期だったと言えます。ある社員がジョブズが要求していたボールを使ったマウスの商品化について、「それは無理だ」といったことを耳にして、翌朝にはその社員をクビにしてしまったそうです。

デザイン思考、IDEOの誕生のきっかけをつくる

アップル・コンピューターが初めてマウスをデザインしたのもこの年てでした。ジョブズとデビット・ケリー、ジム・ユルチェンコによってデザインされたのですが、そのデザインのプロセスがのちに「デザイン思考」というフレームワークや、「IDEO(デザインコンサルティング会社)」の誕生のきっかけになったそうです。

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