スティーブ・ジョブズとはどんな人?生涯を簡単に解説【功績や年表も紹介】

1980年 – 25歳「株式公開で巨万の富を得る」

2億5600万ドルもの個人資産を得る

巨額の個人資産を得て長者番付に名を連ねる

1980年12月12日。「Apple II」の売れ行き好調なアップル・コンピューターは新規株式公開(IPO)を行います。当時において史上最高額の資金調達額を記録し、750万株を保有していたジョブズは約2億5600万ドルの個人資産を得ることに。これによって「フォーチュン」誌の長者番付に20代で名を連ねる事になりました。

余談ですが、この株式公開の4日前の12月12日はジョン・レノンが射殺された日です。

「Apple III」は売れ行き不振

「Apple III」

株式公開をする同年の5月19日には「Apple III」を発売していたアップル・コンピューター。「Apple III」は本来、輝くべき製品となるはずでしたが、売行き不振に陥りました。

「Apple I」や「Apple II」はウォズニアックが独力で設計したのに対し、「Apple III」は社内の製作委員会によって設計行ったため、プロジェクトが難航したことや、ジョブズが静音性に拘って放熱ファンを取り付けさせなかったことで、発熱による不具合が多発。発売当初から悪評が広まってしまったためでした。

約1年後に修正版が発売されるも、挽回するほどのインパクトは与えられず。「Apple III」プロジェクトは失敗に終わります。

ただし、売行きは振るわなかったものの階層化されたファイルシステムなどは、のちに大ヒットするMacintoshに受け継がれ、今日のファイルシステムの礎にもなるなど技術的な功績もありました。

Lisaプロジェクトから追放されMacintoshプロジェクトへ

当時のMacintosh開発チーム

1980年9月。ジョブズは社内での独断専行の立ち居振る舞いが理由で、社長のスコットやマークラによってLisaプロジェクトのメンバーから外されてしまいます。この時、研究開発担当兼副社長の肩書も剥奪され行き場を失ったジョブズは、Macintoshプロジェクトに参加を表明します。

ジョブズの突然かつ一方的な参加表明でしたがMacintoshチームは数人で動いていたチームでもあったのでジョブズを迎え入れました。この時ジョブズは、のちのちMacintoshプロジェクトをラスキンから完全に乗っ取ってしまうことを考えていたそうです。

1981年 – 26歳「社内での確執が顕著に」

社内での確執

ラスキンや社長スコットとの対立

Lisaプロジェクトから追放されてMacintoshプロジェクトに入ったジョブズ。ジョブズはハードウェアを担当し、ソフトウェア(OS)はラスキンが担当していました。

Lisaプロジェクトを上回るものにしようとするジョブズは徐々にソフトウェアに関しても口を出し始め、ラスキンと激しく対立することになります。

この頃には社長スコットとの関係も悪化していたジョブズ。結局は、マークラの判断で、スコットは解雇されれることになります。

スコットの解雇とスカリーの引き抜き

スコットがアップルを去ったため、マーケティングに長けた後任者を探す必要がでてきたジョブズは当時ペプシコーラの事業担当社長だったジョン・スカリーに目星をつけて引き抜きに動きます。

この時の口説き文句は今では有名になっています。

このまま一生砂糖水を売りつづけたいか?それとも世界を変えたいか?」
(Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?)

ビル・ゲイツ、Macintosh向けのアプリケーション開発を約束

1981年には、生涯ライバルとなるビル・ゲイツにMacintoshのデモンストレーションを行います。デモンストレーションを受け、ビル・ゲイツはMac向けのソフトウェアを開発することを約束しました。

しかし、この頃から2人のコンピューターの今後についての考えは違っていました。ゲイツはコンピューターをビジネス目的で利用することを重視し、ジョブズはコンピューターを一般の人にとって役立つものにすることを重視していました。

IBM PC発売。挑戦的な態度を示すジョブズ

IBMのロゴに中指をたてるジョブズ

何かとIBMを目の敵にしていた当時のジョブズ。1981年当時、企業や研究機関向けのコンピューター市場を牛耳っていたIBMから個人向けコンピューターが発売された際には、「ようこそIBM。いやほんとに(Welcome IBM. Seriously)」という広告をウォールストリート・ジャーナルに掲載したこともありました。

また「IBMがこの競争に勝てば、コンピューターの暗黒時代がこれから20年は続くだろう。IBMを市場から追い出そう。こちらの準備はできている」というコメントを残したりもしています。よっぽどIBMが嫌いだったようです。

ちなみに、IBMのロゴの前で中指を立てている写真も有名ですが、これについてジョブズは以下のように語っています。

ここに、彼の自由な精神を象徴する、貴重な写真がある。1983年12月。初代Macintoshの発表直後、Macを特集記事にするという、Newsweekの取材を受けるため、僕らはニューヨークを訪れた。この写真は、たまたまマンハッタンを歩いていた時、同行していたフランス人の旅行代理店のスタッフが、思いつきで撮ったものだ。どういうわけかその写真は僕が持っていることになった。僕が本を出すときに、編集者はこの写真を使わせて欲しいと言ってきた。だけど、許可するにはさすがに怖かった。だって、あの時は、MacのCPUは、IBMが作っていたからね。

さすがのジョブズにも怖いものはあったんですね。

1982年 – 27歳「Macintoshプロジェクトを乗っ取る」

ラスキンがアップルを去り、Macintoshプロジェクトを乗っ取る

Macintoshプロジェクト内で対立が激化していたジョブズとラスキン。1982年3月、ついにラスキンが役員に対して「ジョブズを取るか、自分を取るか」選択を迫りました。

結局、役員たちはジョブズをMacintoshプロジェクトに押し込めておくほうが会社にとって都合が良いと判断し、ラスキンはアップル・コンピューターを去ること。ジョブズがMacintoshプロジェクト参加当初から考えていたプロジェクトの乗っ取りが完了しました。

初代Macintosh、こだわりすぎて開発難航

スケルトンで有名になる初代Macintoshの筐体は「Apple IIc」や「Macintosh SE」のデザインを行なったパートナーのフロッグデザインではなく、社員のジェリー・マノックによってデザインされました。

この初代Macintoshにはシンプルな美しさが必要だと考えたジョブズ。筐体は電話帳(30cm四方)と同程度の大きさであるべきだと提案。フロッピードライブのイジェクトボタンをなくしてオートイジェクトを導入させるにとどまらず、拡張スロットを頑なに採用しなかったり、果ては基板のパターンが美しくないという理由で設計案を何度も却下したりしました。

筐体のサイズからボタンや拡張スロット、基盤のパターンにまで、こだわりにこだわり抜いた結果、開発は難航。Macintoshが発売されるのは結局1984年1月のことでした。

ビル・ゲイツ、Macソフト開発の裏でWindows開発を進める

1982年、ジョブズはゲイツにアップル・コンピューターが作ったマウスを使用するビジネスソフト以外は制作しないことを約束させました。しかし、ビル・ゲイツはMac向けのソフトウェアを開発する一方でWindowsの開発を進めました。

1983年 – 28歳「ジョン・スカリーが社長に就任」

ジョン・スカリー

ジョン・スカリーが新社長に就任

1981年にジョブズとの確執が原因で退任したスコットに代り、かねてより口説いていたジョン・スカリーがアップル・コンピューターの新社長に就任しました。

当時のジョブズとスカリーは「ダイナミック・デュオ」と呼ばれるほど強力なパートナーシップを組み、経営を推し進めたそうです。

Macintoshチームの海賊旗

海賊旗を掲げるMacintoshチーム

この頃、Macintoshチームは海賊旗を掲げるようになります。この海賊旗はジョブズの「海軍に入るより、海賊であれ(「It’s better to be a pirate than to join the navy)」という精神に基づいて掲げていたもので、週に80時間や90時間も働くことがあったMacintoshチームを奮い立たせるためのものでもありました。

ちなみに、Macintoshチームがビルの上に掲げた海賊旗をライバルのLisaチームが盗むもそれを取り返す、という珍エピソードがあったそうです。

ビル・ゲイツ、Windowsを発表

若かりし頃のビル・ゲイツ

1983年、ジョブズのライバルであるビル・ゲイツは、かねてより開発を進めていたWindowsを発表しました。この時、ビル・ゲイツは「1984年に市場のIBMコンピューターの90%以上はWindows OSになる」とコメントしたそうです。実際にこの後、DellやIBMの多数のPCメーカーとライセンス契約を結びMicrosoftがPCマーケットを独占していくことになります。

Macintoshの開発が遅れ、先を越された形となったジョブズは相当に腹を立てたことでしょう。

1984年 – 29歳「Macintosh、伝説的なCMで発表される」

今や伝説となったMacintoshのCM

Macintoshが発表され業界を震撼

1984年1月、Windowsに先を越されながらもMacintoshが、史上最も有名と言われるスーパーボウルのCM枠で発表されました。このCMはリドリー・スコット監督のもと制作され、今や伝説と謳われるほどに大絶賛されました。

実はこのCM。放送前にはアップル・コンピューターの役員全員が猛反対したそうです。購入したスーパーボウルのCM枠を売りに出せとまで言われたそうですが、結局買い手がつかなかったため放送された、という逸話もあります。

CMは好評だったが売上はいまいち、赤字にも

左からジョブズ、スカリー、ウォズニアック

CMが大好評で、売上のすべり出しは好調だったMacintoshでしたが、バグの発生と独自の目立った機能がなかったため、1984年の後半には売上が落ち始めます。

また、ジョブズがMacintoshの需要予測を大幅に見誤ったこともあり、アプルコンピュータは在庫を多く抱えることになり初めての赤字を経験することになり、従業員の5分の1のレイオフ(人員削減)も行われました。

ジョブズとウォズニアックの間に確執が生じる

1984年、ウォズニアックはアルコーンに出会い、アタリ社で報酬を山分けした仕事が、実は山分けではなくほとんどをジョブズが持っていってしまったことを知らされます。

この出来事がきっかけでジョブズとウォズニアックの間にしばらく確執が生じました。ちなみに、ジョブズは最後まで報酬を多くわけていたことを認めなかったと言われています。

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