スティーブ・ジョブズとはどんな人?生涯を簡単に解説【功績や年表も紹介】

1995年 – 40歳「ピクサー上場で再び巨万の富を得る」

株式公開を発表するジョブズ

トイ・ストーリーの大ヒットとピクサー上場で巨万の富を得る

1995年、世界初のフルCGのアニメーション映画「トイ・ストーリー」が公開されました。トイ・ストーリーは3億6000万ドルの収益をあげる大ヒットを記録し、ピクサーは株式を公開し上場します。これによりジョブズが保有していたピクサー株80&の価値は6億ドルに跳ね上がりました。

再び巨万の富を得たジョブズでしたが、これまでに5000万ドル以上をピクサーに投資していたため「こんなにお金がかかるなんて思わなかった」とコメントしたそうです。

ちなみに、この年に第2子で長女のエリン・シエナ・ジョブズ(Erin Seinna Jobs)が誕生しています。

Windows95が発売。アップル・コンピューターのシェアが激減

1995年8月24日。MicrosoftからWindows95が発売されました。これによりアップル・コンピューターのシェアが激減することになります。ジョブズはこの時「アップルも自業自得だが、Microsoftが全てを支配してデスクトップPC市場は暗黒時代に入った」と語ったそうです。

アップル・コンピューターの買収を画策する

ハワイで家族ぐるみの休暇中、オラクルCEOラリー・エリソンと海岸を散策しながら、アップル・コンピューターの買収の話が持ち上がりました。当時アップル・コンピューターは経営が傾いている状況でもあったからです。

投資金として300万ドル用意してジョブズの復権を図るというプランでしたが、結局、ジョブズは「自分は乗っ取りに行くタイプではない。向こうから会社に戻ってくれと言われば別だけどね」と言って実行はしなかったそうです。

のちに、ジョブズが設立したNeXTを買収する形でジョブズのアップル・コンピューターへの復帰が実現するのですが、もしかしたらこのときには既にこの筋書きを想像していたのかもしれませんね。

1996年 – 41歳「ジョブズ、アップル・コンピューターに復帰」

アップル・コンピューターに復帰した当時のジョブズ

アップル・コンピューターがNeXTを買収。ジョブズはアップル・コンピューターへ復帰

1996年11月、アップル・コンピューターは次期OSの社内開発が上手くいかず、外部に基盤技術を求めていました。その話しを耳にしたジョブズはアップル・コンピューターにNeXTが開発したOSであるNEXTSTEPを売り込み行きます。

結果、アップル・コンピューターは次期OSの基盤技術を採用することになり、それにともなってNeXTを4億ドルで買収、ジョブズは顧問としてアップル・コンピューターに復帰することが決まりました。

ちなみに、当時のジョブズは性格や仕事の仕方が丸くなっていたそうです。NEXTSTEPをプレゼンテーショを受けた当時のCEOだるアメリオは「愛想の良い、非常に効果の持てるものだった」というコメントをしていたりします。

ジョブズ自身も、人をもっと信頼できるようになったおかげだと話していたそうです。創業したアップル・コンピューターから追放されたり、家族が増えたりと様々な経験を通して、人として丸くなったのかもしれませんね。とはいえ、後年も口の悪さは健在だったようです。

1997年 – 42歳「アップル・コンピューターの再建を軌道に乗せる」

CEOや経営陣を総入れ替え

当時、経営が傾いていたアップル・コンピューターに復帰したジョブズはまず「いまだにアップル・コンピューターの業績を向上させられていない」として全ての役員を味方につけて、CEOのアメリオを退任させました。この時、経営陣はジョブズにCEO就任を要請するも多忙を理由に断り暫定CEOとなったそうです。

続いて社員の士気をあげるために従業員のストック・オプションの引き下げを役員に提案するも否認されたため、筆頭株主の立場を利用して役員に辞任を迫り、マークラを含む経営陣のほとんどを辞任させ、後任はオラクルのエリソンなどジョブズと関係が深い人達が選ばれました。

Microsoftと業務提携、レイオフなど素早い施策展開で再建を軌道に乗せる

Microsoftとの業務提携を発表。アップルのイベントにビル・ゲイツがゲストとして登場

1997年、ジョブズはアップル・コンピューターの経営を再建するためにさまざまな施策を打ち出しました。

7月には、ライセンス事業を停止させるために、MacOS7.7 としてリリースされるはずだったものをMacOS8としてリリースしました。1994年から行っていた他社へのMac OSのライセンス契約がOS7に限られることを逆手にとったのです。

8月には、なんとライバルであるMicrosoftと業務提携を発表しました。この業務提携は、Microsoftから1億5000ドルの資金とMac版のMicrosoft OfficeとInternet Explorer for Macの提供の2つを柱とするものでした。

11月にはオンライン販売ストア「Apple Store」をオープンし、Macだけでも10種類以上あった製品のうち7割を製造停止して、開発をPower Mac(プロ用デスクトップPC)、PowerBook(プロ用ノートPC)、iMac(一般ユーザー向けデスクトップPC)、iBook(一般ユーザー向けノートPC)の4分野にしぼりました。

他にも、パワー・コンピューティングを買収してインターネット直売事業へ参入したり、大規模なレイオフ(人員削減)を行うなど素早く施策を展開し、経営再建を軌道に乗せました。

1998年 – 43歳「斬新なデザインのiMacが大ヒット」

スケルトンデザインを採用し大ヒットした初代iMac

トライスルーセント(スケルトン)のiMacが大ヒット

1998年5月6日、アップル・コンピューターは「Mac=アイボリーの箱」というイメージ大きく刷新するトライスルーセント(スケルトン)の筐体のデザインを採用した初代iMacを発表します。

同年の8月5日から販売された初代iMacは年末までに80万台が販売され、大ヒットとなります。

ちなみに同年、次女のイヴ・ジョブズが誕生し、またジョブズが亡くなった後にアップルのCEOとなるティム・クックが入社したそうです。

1999年 – 44歳「無線LANシステムを発表、大絶賛される」

貝殻に似せた形状のポータブルPC「iBook」

無線LAN内蔵のiBookを発表、大絶賛される

1999年7月21日、「iMac to go(持ち運べるiMac)」のコンセプトのもと、一般ユーザー向けのノートPC「iBook」を発表しました。

クラムシェルという貝殻に似せた形状、iMacを踏襲した半透明で曲線の多い筐体にポップなカラーは好評でしたが、特にジョブズが「ワン・モア・シング(One more thing)」として発表した無線LANが内蔵されている点が特に評価され大絶賛されました

iMac DV、iMovie を発表するもあまり売れず

1999年10月5日。サンフランシスコで開催されたイベントでジョブズは、ビデオカメラと接続できるiMac DVと映像編集ソフトiMovieを発表しました。

発表の際には、イベントの2日前に亡くなったソニーの創業者である盛田昭夫を「Sonyはコンシューマエレクトロニクス市場を創りあげた。トランジスタラジオから始まり、トリニトロンテレビ、ビデオ、Walkman、そしてCD…」と讃え「天国の盛田さんが、今日の発表を喜んでくれればいいと思う」とも語ったそうです。日本人として、なんだか誇らしくなるエピソードですね。

ただ、このiMac DVはあまり売れませんでした。理由は、当時のインターネットは映像ではなく音楽に関して発展を遂げようとしていたからです。

2000年 – 45歳「正式にアップル・コンピューターのCEOに就任」

正式にアップル・コンピューターのCEOに就任

2000年1月5日のマックワールドにて、Mac OS X の発表の最後に「ワン・モア・シング(One more thing)」として暫定CEOからCEOになったことを発表しました。

デジタル音楽ブームに乗り遅れるもiTunesを開発する

iTunesを開発する

2000年当時、世間ではインターネットでmp3(楽曲データ)をダウンロードして音楽を楽しんだり、CDに焼いてWalkmanで外で音楽を楽しむスタイルが、主に大学生を中心に爆発的に広がり始めました。

mp3再生ソフトとして普及したWinAmpのユーザー数は2500万人にのぼり、音楽共有を主目的にしたファイル共有サービスのNapsterのユーザー数は2000万人を超えていたほどです。

この状況を目の当たりにして、完全に乗り遅れたと感じたジョブズは「自分がアホに思えたよ。必死で追いつかなきゃいけなかった」と「Fortune」誌のインタビューにコメントしたそうです。

ブームに追いつこうとしたジョブズは、元アップル・コンピューター社員が作ったmp3再生ソフトSoundJamを買収、誰にでも使えるように必要な機能にだけ絞らたiTunesへと昇華させました。

2001年 – 46歳「iTunesとiPodで音楽事業に本格参入」

iTunesの画面。当初のキャッチコピーは「Rip. Mix. Burn.」だった

iTunesの発表とデジタルハブ構想

2001年1月9日、mp3ブームにやや遅れる形でアップル・コンピューターはiTunesを発表。当時、ITバブル崩壊の後はPCは売れなくなるのではないかという意見も増えていく中、Macintoshが携帯音楽プレイヤーや携帯電話、デジタルカメラなどデジタル機器のハブになるという「デジタルハブ構想」を語りました。

ちなみに、Windows版のiTunesの開発に対して「自分の目の黒いうちはiPodをWindowsでは使わせない」と頑なに拒んでいたそうですが、社員が粘り強く説得した結果、「君たちの馬鹿げた話は聞き飽きた。勝手にしろ」と言って開発を認めたそうです。

東芝の超小型ハードディスクとソニーのポリマー電池でiPod開発を推し進める

初代iPod

2001年2月、東京マックワールドの基調講演のために来日していたジョブズとハードウェア部門を統括していたルビンシュタインは、東芝の超小型ハードディスクのことを知り、「音楽配信とmp3プレイヤーを一体にしたサービスで音楽業界に革命を起こす」とうい構想が実現できると確信したそうです。

実は超小型ハードディスクを開発した東芝自体はこのハードディスクを何に使えばいいのか見当もついていなかったそうです。

その後、製品の薄型化に重要な薄型電池としてソニーの福島工場にあったポリマー電池を採用し、iPodの開発が本格的にスタートさせ、同年10月23日には「1000曲をポケットに」というキャッチフレーズのもと、初代iPodを発表しました。

初の直営店「Apple Store」をオープン

Apple store1号店を紹介するジョブズ

2001年5月19日、アップルコンピューターは初の直営店「Apple Store」をオープンしました。この直営店はジョブズがソニーのショールームに着想を得て展開されました。

ストアの開発段階で社員が「ジーニアスバー」の提案をすると「そんなものはありえない」と言いつつもすぐに商標登録したり、「製品別ではなく人々がしたいことを中心にレイアウトするべき」という指摘に激怒するも、誤りを認めてレイアウトを作り変えたりといったジョブズらしいエピソードがあります。

2003年 – 48歳「膵臓ガンの宣告を受ける」

膵臓ガンと宣告され、民間療法を試みるも回復せず

2003年10月、ジョブズは膵臓ガンだと宣告されます。ただ、診断当初は幸いにして治療可能な状態でした。医師や家族はすぐに手術を受けるように忠告しましたが、西洋的な医術を頑なに拒否して、ハリ治療やハーブ療法、光療法などの民間療法で完治を試みました。

しかし、民間療法も虚しく9ヶ月後の検査ではガンは大きくなっていることが分かり、2004年8月には摘出手術を受けることになりました。

iTunes Music Storeを発表

iTunes Music Store。2005年には日本でも提供が開始された

ガン宣告を受ける前の2003年4月28日。ジョブズはiTunes Music Store を発表し、同日にサービスをオープンしました。当時、ミュージシャンや音楽レーベルからの反発も出ていたもの、ジョブズ自らが赴いて説得するなどして、地盤を固めたそうです。

iPadの開発へとつながるタブレット端末の開発がスタート

2003年にはのちにiPadの開発へとつながるタブレット端末の開発が極秘裏にスタートしていたそうです。当時のジョブズはインタビューで「世の中はキーボードがほしいと思っている人が多いからタブレットはつくらない、タブレットには金持ちしか興味を示さない」と、開発とは真逆のことを語っていたそうです。

2005年 – 50歳「Stay hungry, stay foolish」

スタンフォード大学の卒業式の式辞をのべるジョブズ

「Stay hungry, stay foolish」スタンフォード大学での式辞

2005年、50歳となったジョブズはスタンフォード大学の卒業式に招待され式辞を述べることになりますが、この時のスピーチの内容は有名です。

式辞は「教育について」「アップルへの情熱と愛するアップルから追放された経験について」「自身のガン体験と死について」という3つのパートで構成され、式辞の最後は「Stay hungyr, stay foolish」という「ホール・アース・カタログ」最終号に綴られた一言を引用する形で締めくくられました。

この式辞は多くの共感を呼び、伝説のスピーチとして有名になりました。

2006年 – 51歳「ディズニーの筆頭株主になる」

ディズニーがピクサーを買収、ディズニーの筆頭株主になる

2006年、ディズニーがピクサーを買収し、ディズニーの完全子会社となりました。これによりジョブズはディズニーの個人筆頭株主になったと同時にディズニーの役員にも就任することになりました。

実はこの前々年の2004年にはピクサーがディズニーとの契約を打ち切ることを表明して、その際にジョブズは「ディズニーは恥ずかしくなるくらいダメな作品を作っている」と公言していました。

なんとも強気な発言をしているにも関わらず、筆頭株主になったりするあたりは、ジョブズにしかできない芸当だなと思います。

2007年 – 52歳「携帯電話の再定義。iPhone の発表」

初代iPhoneを発表するジョブズ

携帯電話を再定義したiPhoneを発表

2007年1月、「携帯電話を再定義した」として初代iPhoneが発表されました。この発表は世界を震撼させ、携帯電話の歴史を大きく動かす発表となりました。

また、このタイミングでアップル・コンピューター(Apple Computer Inc.)は社名をアップル(Apple Inc.)に変更しました。

同年9月には、無線LANを搭載したiPod touchやiPod nano、Apple TVなど次々に新プロダクトを発表し、まさにアップルが大きく時代を動かした年だと言えます。

2009年 – 54歳「過去10年間における最も優れた最高経営責任者に選ばれる」

過去10年間における最も優れた最高経営責任者に選ばれる

2009年11月、ジョブズは「フォーチューン」誌の「過去10年間における最も優れた最高経営責任者」に選ばれました。

この頃にはガンの進行によって体重も体重も落ち、痩せた姿からメディアからも心配の声が上がる状態でしたが、ガンについてはまだ公表していませんでした。

ただ、妻ローレンはウォルター・アイザックにジョブズがガンであること、伝記を書くなら今しかないことを告げ、伝記の執筆が開始されたそうです。

2010年 – 55歳「iPadの発表」

初代iPadの発表をするジョブズ

iPadが発表され、電子書籍ビジネスが活性化される

2010年1月27日、「魔法のような革命的なデバイス」としてiPadが発表。4月3日に販売開始したiPadは初日で30万台が販売される大ヒットとなりました。

iPhoneの機能をベースに雑誌サイズの画面を備えたiPadは電子書籍ビジネスを活性化することになり、のちにKindleなどの競合を産み出すキッカケにもなりました。

2011年 – 56歳「iPhone4Sの発表直後に死去」

息を引き取ったジョブズの自宅

iPhone4Sの発表の翌日に死去

2011年、ジョブズのガンは進行を続け、1月17日には3度目となる病気療養のための休養をすることを発表します。休養中もiPad2の発表会に登壇するなどの活動を行っていました。

また、6月6日には基調講演でiCloudのプレゼンテーションを行っていましたが、これが生涯最後のの基調講演となりました。アップルの時価総額が世界一になった8月にはいよいよ体調が悪くなり、CEOを辞任することになったのです。

そして、iPhone4Sが発表された翌日の10月5日15時頃、パロアルトの自宅で家族に看取れられながら56年の人生に幕を下ろしました。最後の言葉は“Oh, wow”だったそうです。

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あああああああぐfh89frひいdv

ああああああああ
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