芹沢鴨は幕末の水戸藩浪士で、新撰組の前身である壬生浪士組(みぶろうしぐみ)の局長を務めた人物です。粗暴で酒乱な人物として知られていましたが、組内の派閥争いを機に暗殺されました。
その後、台頭したのは皆さんもご存知の近藤勇です。それ故に芹沢が局長を務めていた事を知らない人も多いかもしれません。
一般的に芹沢は「近藤勇」の引き立て役というイメージが強いです。ただ芹沢は卓越した剣術の腕前を持つと共に、非常にスケールの大きい人物でした。
謎も多い人物ですが、出生についても明らかになりつつあります。今回は知られざる芹沢の生涯を解説します。
謎の多い志士の生涯に迫っていきましょう。
この記事を書いた人
Webライター
Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。
芹沢鴨とはどんな人物か
名前 | 芹沢鴨(前名は下村嗣次) |
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誕生日 | 天保3年(1832年)? |
没日 | 文久3年(1863年) 9月16日 もしくは18日 |
生地 | 多賀郡松井村? (現・北茨城市) |
没地 | 八木邸(京都市中京区) |
配偶者 | 妻がいたとされるが 詳しくは不明 |
埋葬場所 | 壬生寺(京都市中京区) |
芹沢鴨の生涯をハイライト
- 文政9年〜天保3年(1826〜1832年)頃に誕生し、後に下村嗣次と名乗る
- 安政5年(1858年) 戊午の密勅の返納阻止運動に参加
- 万延元年(1860年)天狗党に参加
- 文久元年(1861年)狼藉の末に捕縛される
- 文久3年(1863年)1月頃 出獄
- 文久3年(1863年)2月 浪士組に参加
- 文久3年(1863年)3月 壬生浪士組を結成し、筆頭局長となる
- 文久3年(1863年)9月 内部抗争の末に暗殺
謎多き新撰組の初代局長
芹沢鴨は新撰組の前身・壬生浪士組の初代局長となった人物です。容姿は「高身長で太っていた」「色白で目は小さかった」などとされているものの、素性やその事実は今もなお不明なままです。芹沢鴨とされる写真も偽物であることが判明しています。
ただ芹沢は水戸藩(現・茨城県)の郷士・芹沢家出身の人物だった事は間違いありません。芹沢鴨は「芹沢家当主・芹沢貞幹の三男」とされていましたが、近年では「本家の芹沢家から分家した芹沢又衛門の子供」という説が有力視されています。
芹沢鴨は神職の下村家の養子になるものの、尊王攘夷運動に身を投じ、何度も投獄されていたようです。文久3年(1863年)2月5日に江戸幕府が「京都に向かう将軍の警護をする浪士隊」を募集。釈放されていた芹沢は同志と共にこれに応募したのです。
3月10日に京都で「壬生浪士組」が結成された時、組内は芹沢派と、江戸の剣術道場・試衛館の出身である近藤勇派に分かれていました。結果的には芹沢、近藤、水戸藩出身の新見錦が壬生浪士組の局長となり、芹沢が筆頭の局長になったのです。
芹沢は謎も多く、異説も多いです。ただ芹沢が使う署名には「芹沢鴨 平光幹」と書かれており、これは「芹沢家」に詳しい者しか知り得ない書き方でした。彼が壬生浪士組の局長に任命されるには「それだけの理由」があった事は間違いないのです。