日清戦争の原因・きっかけをわかりやすく解説!結果も簡単に紹介

②朝鮮半島を巡り日清が対立したから

朝鮮を狙う日本と清、それを見守りつつ自分も朝鮮を狙うロシアの様子を表した風刺画
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ロシア勢力に対抗するために、日本は清との間に位置する朝鮮半島を独立させようと試みました。独立・近代化することで朝鮮半島自体の安全を確保しつつ、日本の力になって欲しいと望んでいたのです。

しかし、清は朝鮮半島を属国のままにし、自国の支配下に置くことを望んでいました。アヘン戦争による南京条約アロー戦争による北京条約によって、多くの領土を欧米列強に奪われていたからです。

琉球(沖縄)はこの頃日本の領土となる
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以前は属国だった琉球(現在の沖縄)までも日本の領土となり、清の属国は朝鮮半島のみでした。そのため、朝鮮半島だけは手放すわけにいかなかったのです。

朝鮮半島内では、親日派と親清派に分かれた対立が起こります。親日派は開国し国の近代化を進めようとし、親清派は清の方針に従いつつ国を守ろうとしました。その結果、朝鮮半島を巡る日清間の対立は激化していきます。

③甲午農民戦争が勃発したから

甲午農民戦争を先導した全琫準が逮捕される様子
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そして、1894年2月に勃発した「甲午農民戦争(東学党の乱)」が日清戦争の直接的なきっかけとなりました。悪名高い閔妃による独裁政権と政治の腐敗、重税に苦しんでいた朝鮮の農民たちが反乱を起こしたのです。

しかし、実はこの戦争以前から朝鮮半島では内乱が起きていました。閔氏政権と日本への反発から起きた「壬午事変」、近代化を図ろうとする改革派たちによるクーデター「甲申政変」などです。

そしていずれも、清の政権を握る西太后が政治家かつ軍人でもある袁世凱を派遣して鎮圧していました。その結果として清の朝鮮に対する影響力は増大し、朝鮮半島も清を全面的に頼るようになっていたのです。

天津条約を締結させた日本の政治家である伊藤博文
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これを危機とした日本は甲申政変後に「天津条約」を締結。朝鮮半島への出兵時には日清ともに事前通告することが義務付けられました。つまるところ、これは清と朝鮮半島の従属関係を緩和するための条約です。

しかし、甲午農民戦争が起こった際に朝鮮半島から援助を求められた清は天津条約を破り、事前通告なしに軍を派遣し駐屯させました。これをきっかけに日本は清とは和解できないと悟り、朝鮮へ出兵。日清戦争が勃発することとなったのです。

日清戦争の結果と日露戦争勃発までの流れ

海戦における高陞号沈没の様子
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1895年4月17日
日本の勝利で日清戦争終結

日本側が圧勝している最中、清の全権大使李鴻章が来日。山口県の下関で下関条約が締結され、日本側の勝利で日清戦争は終わりを迎えました。
1895年4月23日
三国干渉が発生

ロシア・フランス・ドイツが下関条約による「遼東半島の割譲」に干渉。結果的に日本は遼東半島を清へ返還することになりました。

1904年2月6日
日露戦争の勃発

朝鮮半島に関してロシアと交渉を続けてきた日本ですが、結局は交渉は決裂。日露戦争が勃発しました。

このように、日清戦争の原因には勝敗だけでなく日露戦争にも関係しています。つまり、日清戦争の原因やきっかけを理解することは日露戦争への流れを理解することにもつながるのです。

ここからは日清戦争の原因やきっかけを理解しつつ、改めて日清戦争の結果と日露戦争勃発までの流れを振り返ってみましょう!

日清戦争は日本の勝利で終結

下関条約の締結までの様子
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ロシアの南下政策や朝鮮半島を巡る対立から、甲午農民戦争をきっかけとして始まった日清戦争。長期戦になるかと思いきや、1年ほどで決着が着きました。

明治維新とともに近代化した日本の戦争方法は鉄砲や大砲を使った近代的なもので、昔ながらの清の戦い方とは歴然たる差があったのです。それだけはなく、清側は西太后による散財が原因で軍事費が枯渇していました。

さらには、指揮官の逃亡や呆気ない降伏などが続き、海戦においても陸戦においても日本が有利に進みます。その結果、日本の圧勝で日清戦争は幕を閉じました。

1895年5月に下関条約が締結。清は「朝鮮半島の独立」「多額の賠償金」「遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲」などを約束させられます。また、この敗北によって清は列強国に弱さを見せつけてしまうことになりました。

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