第二次世界大戦をわかりやすく解説!きっかけや原因、年表も紹介

「第二次世界大戦っていつどこで始まったの?」
「どんな戦争だったの?日本の関わり方は?」
「第二次世界大戦って太平洋戦争のこと…?」

「第二次世界大戦」という言葉は知っていても、その実態はよくわからないという人は少なくありません。

近現代史は学校の授業でもあまり扱う時間がないため、大学受験で世界史を選択しない限り、第二次世界大戦について勉強する機会がないまま今に至る人も多いと考えられるので、ある意味当然かもしれません。

第二次世界大戦は、主に「ドイツが引き起こしたヨーロッパ戦線」「日本が引き起こした東アジア・太平洋戦線」の2つがあります。しかしこの2つは独立したものではなく、戦線の拡大とともに様々な国同士の関係が複雑に絡み合い、世界大戦にまで発展してしまったのです。

第2次世界大戦 =
「ヨーロッパ戦線」+「東アジア・太平洋戦線」

この記事では、第二次世界大戦が起きた原因や大まかな流れ、日本との関わり、第一次世界大戦との比較を通して、第二次世界大戦を俯瞰していきます。太平洋戦争というとどうしても日本主観でのみ考えがちですが、この記事では日本も第二次世界大戦に参戦した国の一つとして扱っています。

第二次世界大戦を大局から捉えることで、学べることもきっとあるはずです。それでは一緒に見ていきましょう。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

第二次世界大戦とは

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第二次世界大戦とは簡単にいうと

枢軸国 vs 連合国

第二次世界大戦は、1939年9月から1945年8月まで、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国(※1)とイギリス・フランス・中国・ソ連・アメリカなど連合国との間で起きた、世界的規模の戦争です。

もともとはドイツのポーランド侵入と、これに対するイギリス・フランスの対ドイツ宣戦により勃発しましたが、1941年12月に日本のアメリカ・イギリスとの宣戦により世界大戦に発展します。

約7年間に渡った世界大戦は、日本による1945年8月の降伏によって終戦を迎えた。

1943年9月にイタリアが、1945年5月にドイツが、1945年8月に日本が降伏して終戦を迎えました。

※1:枢軸国(すうじくこく)とは、第二次世界大戦時に連合国と戦った諸国を指す言葉。

第二次世界大戦の呼び名

「第二次世界大戦」というと、欧州戦線のことをイメージする人が多いかもしれません。日本でよく使われる「太平洋戦争」という呼称は、第二次世界大戦の一局面です。その名の通り太平洋を中心にした日本と連合国軍との戦いについて説明するために使われる言葉です。

なお、「太平洋戦争」のことは「大東亜戦争」とも呼ばれていましたが、これは1941年12月の閣議で決められた呼称です。

1879年の太平洋戦争

しかし戦後、GHQから「大東亜」といった戦時用語の使用を避けるように通達があったこと、またアジア諸国への侵略という一面も表すべきだとして、「アジア・太平洋戦争」という表記が提唱されるようになっています。

ちなみに「太平洋戦争」という呼称は、世界史上では、1865年のチリとペルーによるスペインとの戦争や、1879年にチリに対してペルーとボリビア両国が争った戦争を指します。

第二次世界大戦の死者数と期間

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当時の世界人口の約2.5%が被害者となった
期間1939年9月1日 – 1945年9月2日
死者数(全世界)軍人 約2000万人
民間人 約4000万人
死者数(日本)軍人 約200万人
民間人約80万人

第二次世界大戦における日本の戦力や死者数は?参戦した経緯や影響も解説

第二次世界大戦のきっかけ、原因

きっかけは、未曾有の不況

なぜ第二次世界大戦が起きたてしまったのか。多くのきっかけが複雑に絡み合っているのでまとめるのが非常に難しいですが、それでも要点だけに絞ると、下記のようになります。

  1. アメリカきっかけで世界大恐慌が起き、他国へも波及
  2. なかでもドイツ、日本、イタリアは経済的に苦しくなる
  3. ドイツは第一次世界大戦で背負った賠償金200兆の負債で首が回らない
  4. ヒトラーは経済的要所であるポーランドの奪還を図る
  5. ポーランドと安全保障条約を結んでいたイギリス・フランスがこれに対抗
  6. 第二次世界大戦、勃発

詳しく解説していきます。

第二次世界大戦の原因やきっかけは?当時の各国の状況も詳しく紹介

原因①:世界恐慌による深刻な経済危機

すべての始まりは、世界恐慌

世界恐慌が起きたのは1929年10月、ニューヨーク株式市場の株価大暴落がきっかけでした。当時アメリカは世界の債権国となっていたこともあり、影響はアメリカ国内に留まらず、世界中に波及していきます。

世界大恐慌をわかりやすく紹介!原因と影響、各国の対応について簡単解説

イギリスやフランスは、この危機を打開しようと「ブロック経済」を作りました。ブロック経済とは、本国と植民地や自治領を囲い込み、他からの輸入を制限するというものでした。

ブロック経済 =
他国からの輸入を禁止して
自国を守る経済処置

イギリスやフランスのように植民地を領有している国は問題ありませんでしたが、「そうではない国」はブロック経済に阻まれて、国際貿易ができずに経済的に苦しむことになりました。

ドイツや日本、イタリアがまさにその「そうでない国 = 経済的に窮地に立たされた国々」でした。両国とも軍事力を使って領土を拡大することで、この問題を解決しようとします。植民地を得ることで自給自足を目指そうとしたのです。

ブロック経済とは?政策の特徴や影響、経済圏についてわかりやすく解説

原因②:ミュンヘン会談

ミュンヘン会談で勢いづいたドイツ

決定打となった、ミュンヘン会談

第二次世界大戦への道が決定的になったといわれているのが、1938年9月に行われた「ミュンヘン会談」です。ドイツが、ドイツ人が住民の多くを占めているチェコスロバキアのズデーテン地方を割譲するよう要求したのに対して、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの首脳が集まって会議を行いました。

チェコスロバキアにとってズデーテン地方は、地下資源もあり工業地帯でもあることから自国経済の要であり、おいそれと譲れる場所ではありませんでした。一方、「民族自決」を掲げるヒトラーにとって、ズデーテン地方をドイツに割譲することは理にかなったことだったのです。

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結果的にイギリスのチェンバレン首相による宥和政策(※2)により、ズデーテン地方はドイツに併合されました。この背景にチェンバレン首相が最大の敵をソビエト連邦と見ていたという事情があります。ドイツや日本は、ソビエト連邦を抑えるために利用しようとしていたのです。

進駐するドイツ軍を迎えるズデーテンラントの住民。1938年10月5日。

一方ヒトラーは、イギリスがソビエト連邦を警戒している限り、自分の要求が通ると考えていました。その結果は、予想通りでした。

当事者のチェコ代表不在のまま決定された

この会議の問題は、出席者にもありました。まず、当事者であるチェコ代表のベネシュ大統領が呼ばれていなかったことです。フランスと相互援助条約を結んでいたにも関わらず会議に出席できなかったチェコは、フランスとの関係も解消してしまいます。ドイツにとって、チェコがフランスと手を切ったことは好都合でした。

会議に呼ばれなかったベネシュ大統領

そしてフランスと同盟関係にあったソビエト連邦も会議に呼ばれませんでした。ソビエト連邦最高指導者スターリンはフランスとの決別を決め、ドイツに接近していきます。これが後に独ソ不可侵条約に繋がっていくのです。

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当時まだ下院議員であった、後のイギリス首相チャーチルは、この知らせを聞いて第二次世界大戦は避けられないものになったと嘆いたと言われています。

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※宥和政策(ゆうわせいさく)とは、戦争に対する恐れ、倫理的な信念、あるいは実用主義などに基づいた戦略的な外交スタイルの一つの形式で、敵対国の主張に対して、相手の意図をある程度尊重する事によって問題の解決を図ろうとすること。 宥和主義(ゆうわしゅぎ)とも。

原因③:追い詰められていたドイツ

そして、このミュンヘン会議によって、ドイツはポーランドにあるダンツィヒを奪い返そうとします。これが直接的な原因となります。

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