東ローマ帝国とは?ビザンツ帝国との違いは?歴史年表まとめ【政治体制から文化、宗教まで紹介】

東ローマ帝国の政治体制

古代ローマ帝国から継承した専制君主制

東ローマ帝国の政治体制は、古代ローマ帝国後期の時代に誕生した、皇帝による専制君主制を受け継いでいます。

東ローマ皇帝は神の恩寵によって帝位に就き、神の代理人として政治や軍事、宗教において強力な権限を保有しているとされました。しかし、実際の皇帝としての地位は不安定で、クーデターが起こって国内情勢が混乱してしまうことも多かったのです。

また、東ローマ帝国では農民出身の皇帝が度々出現していたことも特徴として挙げられます。その中でもユスティニアヌス1世やバシレイオス1世は多くの功績を残した有能な皇帝として知られており、東ローマ帝国の発展に大きく貢献しました。

行政制度の変化

東ローマ帝国の行政制度は、当初は古代ローマ帝国の時代から受け継ぐ属州制を採用していました。属州制とは、行政権と軍事権が分けられている地方の行政制度です。

そして、イスラムなどの周辺諸国からの攻撃が増えてきた頃には、地方の軍をまとめる長官が行政権を握るテマ制という制度に変化しました。外敵に備え、迅速な防衛体制の整備が求められていたのです。また、兵農一致体制という特徴もありました。

テマ制によって区分けされた東ローマ帝国の地図

8世紀以降に外敵の侵入が減少すると、国内において貧富の差の拡大が問題となります。農民兵士層の貧困、没落は進行し、大土地所有者との格差が広がった結果、テマ制は崩壊しました。その後、貴族層に対して国家への軍事的な奉仕を求める代わりに、大土地所有と徴税権を認めるプロノイア制が誕生します。

東ローマ帝国の文化・宗教

ビザンティン文化

ビザンティン文化とは、古代ギリシア、ヘレニズム、古代ローマの文化とペルシャやイスラムなどの東方の文化が相互に影響し合ったことで生まれた、東ローマ帝国における独自の文化です。

東方正教会を信仰する周辺諸国や西欧のルネサンス、イスラム文化圏に対して文学、美術、建築、教会音楽など様々な分野で大きな影響を与えたとされています。

また、ビザンティン建築の最高傑作といわれているハギア・ソフィア大聖堂は、元々は東方正教会の大聖堂でしたが、ラテン帝国支配下においてはローマ=カトリックの大聖堂として扱われ、その後のオスマン帝国の時代にはイスラム教のモスクとして残り続けました。

ビザンティン建築の最高傑作ハギア・ソフィア大聖堂

東方正教会

東方正教会の旗に描かれた双頭の鷲

東方正教会とは、コンスタンティノープル教会を首座として、東ローマ帝国の下で独自に発展したキリスト教の教派の1つです。正教会、ギリシア正教とも呼ばれます。

東方正教会は、西方のローマ=カトリック教会と同じ正統派の三位一体説を信仰の柱としていました。しかし、聖像崇拝の可否に対する教えの違いで両教会は対立。11世紀には互いを破門し、東西の両教会は完全に分離してしまいます。

その後、東西教会の対立は修復困難な段階まで進行し、13世紀には西方教会が聖地エルサレム奪還のために十字軍を送り込み、コンスタンティノープルを占領してしまう事件も起こりました。

東ローマ帝国の歴史上重要な出来事

トルコ人の侵入

トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝との戦い

国家の興亡が激しい「文明の十字路」に位置する東ローマ帝国は、度々東方の民族による侵入を受けることになります。

当初の東ローマ帝国は、隣接するサーサーン朝ペルシアと国境を争っていました。その後、ペルシアを滅ぼしたアラブ人のイスラム王朝との対立が深まりますが、これも撃退して東ローマ帝国は最盛期を迎えます。

しかし11世紀に入ると、東ローマ帝国はトルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝やルーム=セルジューク朝の攻撃を受けるようになりました。1071年のマラズギルトの戦いでセルジューク朝に敗北した後には多くの異民族が流入。そして、ミュリオケファロンの戦いでルーム=セルジューク朝に惨敗した結果、東ローマ帝国の国際的な地位は下落することになります。

第4回十字軍

1202年、東ローマ帝国は第4回十字軍によって攻略され、コンスタンティノープルを占領されてしまいました。略奪や殺戮の限りを尽くした第4回十字軍は、最も悪名高い十字軍として知られています。

コンスタンティノープルを攻撃する第4回十字軍

本来の十字軍とは、西欧カトリック諸国が派遣した、聖地エルサレムの奪還を目的とする遠征軍でしたが、第4回十字軍は東方貿易に意欲を示していたヴェネツィアの商人の助言を受け、コンスタンティノープルを攻撃しました。

その後、第4回十字軍はラテン帝国を建国。東方正教会を否定するカトリック国家として成立しましたが、資本や軍事はヴェネツィア共和国に依存しており、植民地のような形でした。しかし、1261年には東ローマ帝国の亡命政権であるニカイア帝国に滅ぼされます。

コンスタンティノープル陥落

1453年、オスマン帝国のメフメト2世による攻撃を受け、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落。この事件により、東ローマ帝国は滅亡することになります。

東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン皇帝メフメト2世

東ローマ帝国の滅亡は、長く続いてきた古代ローマ帝国の系譜が途絶えることを意味していました。しかし、滅亡前後に多くのギリシア人の古典学者や知識人がイタリアへ亡命したことにより、イタリア・ルネサンスに大きな影響を与えることになります。

また、東ローマ帝国の滅亡とオスマン帝国の台頭は、ルネサンスへの影響だけでなく、宗教改革、大航海時代の幕開けなど様々な西欧情勢の変化を生み出しました。コンスタンティノープルの陥落は、時代が中世から近世へと移り変わるきっかけとなったのです。

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