徳川家定とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や篤姫との関係も紹介】

「徳川家定ってどんな人?」
「篤姫の夫というイメージが強いけど、何をした人なの?」

徳川家定は江戸時代の13代目征夷大将軍です。どちらかというと天璋院篤姫の夫だった事で知名度が高いのかもしれない人物でもあります。一般的に「暗君」のイメージが強く、色々と将軍らしからぬ行動の数々が残されていますが、時代の変わる時期でもあり、その為に体調を崩していった将軍でもありました。

13代将軍徳川家定

将軍職に就いていた時期は5年間の徳川家定という人物。この記事では「暗君」と呼ばれた徳川家定がどのような人物であったのか?残された逸話は証言まで踏まえて、家定の生涯を解説します。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

徳川家定とはどんな人物か

名前徳川家定
別名イモ公方
誕生日1824年5月6日
没日1858年8月14日
生地武蔵野国・江戸
没地武蔵野国・江戸
配偶者孝司任子・一条秀子
・近衛敬子(天璋院篤姫)
埋葬場所東京の寛永寺

徳川家定の生涯をハイライト

黒船が来航した時に将軍職に就いていた人物だった
  • 1824年:12代将軍徳川家慶の4男として江戸城で生まれる
  • 1841年:大御所徳川家斉が薨去し、世嗣となる
  • 1853年:黒船来航の年に、父家慶が薨去する
  • 1856年:近衛敬子(天璋院篤姫)が輿入れをする
  • 1857年:米国総領事ハリスに謁見している
  • 1858年:諸大名の前で将軍後嗣の選定と一橋派の大名を処分する
  • 同年:江戸城にて薨去。享年35歳

正室に篤姫を迎えた経緯

御台所・天璋院篤姫

徳川家定は生涯に3人正室を迎えました。その中の一人が薩摩藩主・島津斉彬の養女である「天璋院篤姫」です。家定は1828年に孝司任子を正室に迎えますが、疱瘡により1848年に死去。次に翌年、一条秀子を正室に迎えますが、元来病弱だった秀子も輿入れの僅か半年後に薨去してしまいます。

その為3番目の正室として島津斉彬が、名門近衛家の養女として、天璋院篤姫が輿入れをしたのです。島津家から正室を取った理由は、家定や大奥が長命で子沢山だった祖父の徳川家斉にあやかってのものだったといいます。

薩摩藩主・島津斉彬

島津斉彬公が自らが推す一橋慶喜を将軍にするために、策略の一環として篤姫の輿入れを政略ではないかという説がありましたが、島津家からの正室の申し入れは家定が将軍職の前に行われていた為に、現在は輿入れ問題と後嗣問題は無関係と考えられています。

篤姫との仲は?子供はいた?

晩年の篤姫、気の強さが雰囲気からにじみ出ている

大河ドラマでも有名になった女傑「篤姫」と家定が、仲が良かったのか?気になるところですが、残念なことに家定と篤姫の仲を窺わせるエピソードはほとんど残っていません。そして、二人の間に子供も恵まれませんでした。まず篤姫が家定に輿入れをしたとき、家定が33歳の時でした。家定が薨去したのが35歳なので、夫婦生活は僅か2年足らずだったのです。

そし生まれながらに病弱だった家定は、激務で病気が悪化しており篤姫への御渡りはほとんど無かったのではないかと推察されています。家定は病弱なことも関係しているのか、女性に積極的ではなく大奥に泊まるのは月に数度だったといわれています。しかし篤姫が持ってきた黒砂糖を使ってカステラを作り、篤姫にも振舞ったというエピソードも残っています。

後年篤姫は、和宮と共に徳川家相続に尽力した

料理が趣味の体の弱い夫に篤姫がどの様に感じていたのかは想像になりますが、決して悪い印象もなかったのではないでしょうか。篤姫は後に、大政奉還の時には、14代将軍家茂の正妻・和宮と共に徳川家の存続と江戸を守るために力を尽くしています。

明治時代になっても、「自分は徳川家の人間」と島津家の支援を決して受けなかったと伝わっています。仲は今となってはわかりませんが、篤姫が徳川の人間として輿入れしてからの生涯を貫いた女性でした。

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