一ノ谷の戦いとは?いつどこで起きた?戦いの経過もわかりやすく解説

主要な登場人物

源義経

源義経
出典:Wikipedia

源頼朝の弟で戦の天才と呼ばれ、数々のエピソードが残されています。一ノ谷の戦いでも鵯越の逆落としを行ったとされています。

先ほども説明したように、断崖絶壁を騎馬で駆け下りたかどうかまではわかりませんが、平家軍を奇襲して戦いの流れを源氏方に持っていったのは間違いないようですから、やはり軍事の天才なのでしょうね。

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平忠度(たいらのただのり)

平忠度
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平清盛の異母弟です。歌人として有名で、新勅撰和歌集などにも忠度の歌が載せられています。一ノ谷の戦いで戦いますが、敗走中に討ち死にします。

戦死した忠度の箙(えびら・矢を入れる入れ物)には

行(ゆき)くれて 木(こ)の下かげをやどとせば 花やこよひのあるじならまし

という歌が結び付けられていたそうです。意味は「旅に行き暮れて、桜の木の下を宿とするならば、花が今夜の主となって私を慰めてくれるだろう」というものです。源平両軍とも文武に優れた忠度の戦死を惜しんだといわれています。

平敦盛

平敦盛を呼び止める熊谷直実
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平清盛の弟、経盛の子です。17歳で一ノ谷の戦いに参加。敗走中に源氏方の熊谷直実に呼び止められ、組み合いになりますが百戦錬磨の直実に組み敷かれてしまいます。しかし直実は自分の子と同じ年ごろで大変な美男子だった敦盛を見て、討ち取ることを躊躇してしまいます。

しかし直実は「この状況では逃げ延びることもできまい。それならせめて私が。」と泣く泣く首を切りました。直実は後年出家しますが、このときのことも一つの原因ではないかと言われています。この場面は能の「敦盛」などの題材となり、今でも語り継がれています。

後白河法皇

後白河法皇
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一ノ谷の戦いで平家が敗北した原因を作ったのではないかといわれている人物です。戦が起こる2月7日の前日に平家方へ休戦命令の使者を送りました。平家方は法皇の言うことを信じていた油断してところ源氏の奇襲を受けたというものです。

これには異説もあり、真実かどうかはわかりませんが、追討の宣旨を出したのも後白河法皇ですし、この時代のキーパーソンであったことには間違いありません。

一ノ谷の戦いの経過

戦いが起きるまで

平家の都落ち

木曽義
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治承4年(1180年)に以仁王が平家を打倒するため挙兵しました。これが源平合戦(治承・寿永の乱)の始まりです。

以仁王に応えて信濃国で挙兵した木曽義仲は、寿永2年(1183年)5月、倶利伽羅峠の戦いで平家に大勝し、その勢いで京都へ迫ってきました。平家一門は同年7月安徳天皇と三種の神器とともに都落ち、太宰府まで逃げ延びました。

平家の勢力立て直し

宇治川の戦い
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京都を制圧した木曽義仲でしたが、京都で乱暴狼藉を働き統治に失敗してしまいます。後白河法皇との仲も険悪になり、寿永2年11月の法住寺合戦で後白河法皇を幽閉してしまいます。源頼朝は弟の源義経・範頼を派遣し、寿永3年1月20日、宇治川の戦いで木曽義仲を討ちます。

源氏がこのような内紛を起こしている最中に平家は着々と力を取り戻していました。讃岐国(香川県)の屋島、次いで摂津国の福原まで進出します。瀬戸内海、中四国、九州を制圧して数万人の兵力を動員できるまでに回復しており、上洛の機会をねらっていました。

京都へ迫ってくる平家に危機感を覚えた後白河法皇は同年1月26日、平家追討の宣旨を出します。源頼朝はその宣旨に従い義経・範頼らに平家の追討を命じたのでした。

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