幕末維新の有名人物・武士35名を一覧で紹介【写真や相関図、年表付き】

幕末。それは260年以上も続いた江戸幕府の最後の時代で、一般的にはペリーの黒船が来航した1853年から戊辰戦争の1869年までの時代をさします。そんな長く続いた江戸幕府を終焉させただけあって、この時代には有名な偉人たちが数多く活躍していました。

また、この時代は様々な勢力が対立しており、非常に複雑な時代でもあります。そこで今回は幕末に活躍した有名な人物や武士を、

  • 朝廷
  • 旧幕府軍
  • 新政府軍
  • その他藩士・外国人・女性

という主要な勢力に分けて、相関図付きで35名紹介します。また、幕末で起きた主な出来事も簡単に時系列でまとめています。

この記事を読めば、幕末で活躍した人物たちが、どの立場でどのような功績を残したのか?までご理解頂けるはずです。記事の終盤には、幕末の人物関係が良く分かるおすすめの作品についても紹介しているので、ぜひ最後までご覧ください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

幕末の人物相関図

幕末の人物を紹介する前に、初めに幕末の人物たちの関係性についてご紹介していきます。幕末の人物たちはこのような相関図となっています。

幕末の相関図

幕末では大まかに分けると、

  • 朝廷
  • 幕府
  • 新選組

このような派閥があり、それぞれの派閥が様々な考えを持ち行動していました。藩の中でも薩摩藩は幕府と敵対する藩であったり、会津藩は幕府に忠誠を誓っていたりと、藩によっても考え方が大きく変わります。

このそれぞれの派閥の関係性についてこれから紹介していきます。

朝廷

朝廷とはかつて日本に存在した、天皇を中心とした組織です。幕末時代には孝明天皇や明治天皇が在位していました。

幕末では1867年の大政奉還が行われるまで幕府が政治を行っており、それまでは年号の制定や官位授与などの役割を朝廷が担っていました。大政奉還後は政治権力を回復しましたが1885年に現在の内閣制度が発足したことで政治機構としての朝廷は消滅することになります。

幕府

江戸城天守

幕府とは将軍が政治を行う体制のことです。前述のように幕末では朝廷が将軍を決める官位授与の役割を持っていました。そのため幕府は朝廷から日本の政治を行うように委託されていた形になっています。

ですが幕府の井伊直弼は、天皇の許可なしで「日米修好通商条約」を結んだことがきっかけで、尊王攘夷運動(天皇を敬い、海外勢力は追い払おうという考え)が活発になり、混乱した世の中になっていきます。そしてこれが後に旧幕府側と新政府側の戊辰戦争へとつながっていきます。

藩とは今でいう地方自治体のようなもので、幕末ではそれぞれの藩が特有の思想を持ち、動いていました。ここでは一例として有名な薩摩藩と会津藩を簡単に紹介します。

薩摩藩(サツマハン)

薩摩藩は現在の鹿児島県の位置にあります。

幕末前期では薩摩藩の藩主である島津家が、幕府とともに尊王攘夷派との対立を深めました。幕末後期では西郷隆盛や大久保利通が実権を握ることになり、長州藩と同盟を結び薩摩藩は倒幕勢力へと変わりました。

会津藩(アイヅハン)

会津藩は現在の福島県に当たる位置にあります。会津藩は代々「将軍に忠誠を尽くす」という方針で、幕末でもこの方針に従い政治がおこなわれており、幕府に従い新選組と共に尊王攘夷派を取り締まっていました。

最後まで幕府に忠誠を誓っていましたが、幕府がほろびた後に薩摩藩や長州藩を率いる新政府軍に攻撃されることになります。

新選組

新選組は幕府が将軍の警護のために作られた組織で、京都の尊王攘夷派を厳しく取り締まっていました。

新選組では掟に違反したものは切腹させられるという厳しさや、団結力が非常に強く、死をも恐れないことから尊王攘夷派に恐れられていました。ですが会津藩と同じように幕府がほろびた後は新政府軍との戦いにより多くのものが戦死し解散することになります。

幕末に活躍した人物・武士を勢力別で紹介

朝廷

朝廷の様子出典:ジャパンアーカイブズ

朝廷とはかつて日本に存在した、天皇を中心とした組織です。幕末時代には孝明天皇や明治天皇が在位していました。

幕末では1867年の大政奉還が行われるまで幕府が政治を行っており、それまでは年号の制定や官位授与などの役割を朝廷が担っていました。大政奉還後は政治権力を回復しましたが1885年に現在の内閣制度が発足したことで政治機構としての朝廷は消滅することになります。

孝明天皇

孝明天皇
出典:Wikipedia

日本の第121代天皇です。即位してすぐに幕府に対して海防強化と、外国の情勢を報告させるなど危機感を持っていました。幕府が許可なく条約を結んでいた時は激怒し、譲位を辞さないほどだったといいます。しかし幕府と対立するばかりではなく、妹の和宮を婚姻させました。しかし尊王攘夷運動が盛んになり始めたころ、突然崩御しています。

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有栖川宮熾仁親王

有栖川宮熾仁親王
出典:Wikipedia

有栖川宮熾仁親王は、朝廷の中でも三条実美と並ぶ長州系攘夷派の人物でした。孝明天皇の妹・和宮親子内親王と婚約していましたが、公武合体政策のために婚約を破棄させられています。その後、長州の復権を目指してクーデターを起こすものの失敗し蟄居しました。

しかし孝明天皇の死で情勢が変わり、戊辰戦争で東征大総督を勤めました。明治時代は軍人・政治家として活躍しています。

三条実美

三条実美
出典:Wikipedia

幕末には朝廷で、尊王攘夷・討幕派の中心的存在だった人物です。しかし「八月十八日の政変」で失脚、大宰府に落ち延びました。しかし大政奉還により政界に復帰、明治4年には太政大臣に任命されています。その後内大臣を務め、2か月間内閣総理大臣を兼任していた時期もありました。明治天皇の信任も厚かったそうですが、1891年に薨去しました。

岩倉具視

朝廷で公武合体派の中心的存在だった人物で、和宮と将軍・徳川家茂との婚姻を中心で行いました。しかしこのことで糾弾され失脚。しかし大政奉還後に政権復帰し、外務卿として「岩倉使節団」のリーダーとして欧米の来訪。日本の近代化に大きく貢献しました。明治政府でも公家出身の重鎮として活躍しています。

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姉小路公知

姉小路公知
出典:Wikipedia

幕末の公家で、日米修好通商条約に反対する公家の指導者として活躍しました。三条実美と共に攘夷を幕府に促す使者として江戸に向かっています。その後も朝廷の攘夷派の筆頭でしたが、1863年自宅への帰路に3名の刺客が襲撃。扇を振るって刀を奪い奮闘するも重傷を負い、自宅で死去しました。

大原重徳

大原重徳
出典:Wikipedia

孝明天皇から徴用されていた人物です。幕末には岩倉具視の推薦で、薩摩藩に警備されながら江戸に向かっています。その時に攘夷の決行と、一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍後見職、松平春獄を政治総裁職に任命することを要求、幕府に承諾させています。しかし京に戻ると長州藩と薩摩藩を批判する勅書を改ざんした罪で辞職、幽閉されました。明治に入ると許されて政界で活躍しました。

旧幕府軍

戊辰戦争の様子
出典:Wikipedia

旧幕府軍とは、政治を代行していた将軍が率いた軍のことです。前述のように幕末では朝廷が将軍を決める官位授与の役割を持っていました。そのため幕府は朝廷から日本の政治を行うように委託されていた形になっています。

ですが幕府の井伊直弼は、天皇の許可なしで「日米修好通商条約」を結んだことがきっかけで、尊王攘夷運動(天皇を敬い、海外勢力は追い払おうという考え)が活発になり、混乱した世の中になっていきます。そしてこれが後に旧幕府側と新政府側の戊辰戦争へとつながっていきます。

徳川慶喜(将軍)

徳川慶喜は幼いころから秀才で、将軍候補として知られており、14代将軍家茂が病死した後、15代将軍となりました。慶喜は薩摩藩と長州藩の勢力には勝てないと踏んで大政奉還を決断します。

しかし、その後の新政府に領地を朝廷に返すように命令され、領地を返すわけにはいかない慶喜は新政府と対立し、戊辰戦争が勃発します。その後戦争に敗れた慶喜は静岡で静かに暮らしたとされています。

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井伊直弼(大老)

井伊直弼は「大老」という老中よりも権力のある部署についていた人物です。1853年にアメリカから黒船が訪れ日本に開国を迫っており、朝廷の許可を得ずに「日米修好通商条約」を締結。その後反対勢力を弾圧する安政の大獄を起こしています。

しかし苛烈な政治体制は反感を持たれ、1860年に水戸藩士に襲撃され「桜田門の変」で命を落としました。

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勝海舟(軍艦奉行)

勝海舟
出典:Wikipedia

勝海舟は徳川家の家臣の子として生まれました。勉強熱心だった海舟は幕府にてすぐに出世します。

戊辰戦争で慶喜は降伏し、海舟は新政府との話し合いを慶喜に任せられます。海舟は西郷隆盛と話し合いの末、江戸城への攻撃を中止してもらう事に成功しました。戦争後は新政府に認められ、重要な役職を担いましたがすぐに退任し、その後は徳川家の家臣だった人の生活を守るために尽力しました。

榎本武揚(海軍副総裁)

榎本武揚
出典:Wikipedia

榎本武揚は幕臣の子として生まれ、幕府の人間としてオランダに留学しました。帰国後は幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領。「蝦夷共和国」の総裁となりました。その後函館戦争で降伏、投獄されましたが後に許され、明治時代は特露特命全権公使や海軍卿など政界や軍人として活躍しています。

松平容保(京都守護職)

松平容保
出典:Wikipedia

松平容保は18歳で会津藩の藩主となり、その後幕府の安全を守るために京都守護職に就きます。そこで新選組とともに尊王攘夷派を厳しく取り締まりました。

ですが容保を信頼していた孝明天皇が亡くなり、大政奉還が行われたことで容保は新政府軍の敵となり、攻撃されることになります。会津での戦いで多くの犠牲者を出し、疲れ切った容保は降伏します。その後の明治時代では宮司となったのちに、病気で亡くなっています。

近藤勇(新選組局長)

近藤勇は若いころから剣術の腕を見込まれ一時期、徳川家茂を守る「浪士組」になります。その後浪士組で考えの合う土方歳三たちと共に松平容保の下につき、後に新選組が発足します。その後近藤勇は新選組の局長として活躍しますが、幕府がほろびた後新政府軍に敗北し処刑されました。

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土方歳三(新選組副局長)

土方歳三は農家として生まれ、25歳から道場に通い、ここで後の新選組局長となる近藤勇と出会います。その後近藤と共に「浪士組」となったあと松平容保の下につき、後に新選組の副長となりました。戊辰戦争では、局長の勇が処刑された後も最後まで逃げることなく戦いましたが、銃弾を受けて戦死しました。

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沖田総司(新撰組一番隊組長)

沖田総司の肖像画
出典:ミドルエッジ

沖田総司は新撰組一番隊組長であり、撃剣師範だった人物です。陸奥白河藩士出身で、天然理心流の近藤や土方と同門でした。近藤たちと参加し池田屋事件などで活躍するも、肺結核に悩まされ戊辰戦争も参加できず、最後は千駄ヶ谷の植木屋で生涯を終えました。

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斎藤一(新撰組三番隊組長)

斎藤一
出典:Wikipedia

斎藤一は三番隊組長で撃剣師範を務めた人物です。出身は播磨(兵庫県)の足軽で後に御家人株を買ったといわれていますが、はっきりわかっていません。間違って人を殺めてしまい京に隠れている時に、面識があった近藤たちと再会、新撰組に入隊しました。新撰組から分裂した「御陵衛士」に間者として活躍するも再度新撰組に戻り戦いますが、会津藩降伏により囚われの身に。明治には警察官となり胃潰瘍で死去しました。

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新政府軍

戊辰戦争で戦う土佐藩士
出典:Wikipedia

新政府軍とは薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)の4藩を中心とした江戸幕府に対する討幕運動のために組織された軍のことをいいます。

特に薩摩藩と長州藩は「薩長同盟」を結び、倒幕を主導。「王政復古の大号令」により「新政府」が樹立し、薩摩藩や長州藩・土佐藩らを中核とする軍を新政府軍と称しました。

坂本龍馬(土佐藩)

坂本龍馬は28歳の時に自由を目指し、土佐藩を抜け出して活動することになります。その後、龍馬は勝海舟の教えに感銘を受け弟子となり活動します。その頃禁門の変で長州藩と薩摩藩が対立していることで日本の危機感を感じ、両藩を結びつける活動を行いました。

その後、龍馬は大政奉還の時にも活躍しますが、大政奉還が実現した1か月後、京都にて何者かに暗殺され、この世を去ることになります。

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中岡慎太郎(土佐藩)

中岡慎太郎は土佐藩出身の士族で、尊攘夷運動を行なっていき、薩長同盟の締結や薩土協約などの締結に尽力した志士です。1866年に薩長同盟が結ばれると、土佐藩もこの流れに乗るように誘いかけました。1867年には武力で幕府を倒すための「陸援隊」を作り、体調となりました。しかし討幕の道筋が固まり始めたころ、坂本龍馬とともに暗殺されています。

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後藤象二郎(土佐藩)

後藤象二郎は幕末の土佐藩の政治に関与して、藩内の意見を統一すると共に、大政奉還建白書を幕府に提出した人物です。土佐藩主山内容堂を通じて、15代将軍徳川慶喜に建白書を提出しています。慶喜はこの案を受け入れて、大政奉還が行われました。明治時代後は板垣退助と共に、自由民権運動を主導する等、精力的に活動しています。

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板垣退助(土佐藩)

土佐藩の上級武士出身だった板垣退助は、倒幕の考えを持っており、薩摩藩に「幕府を武力で倒すのなら土佐藩も協力する」と約束していました。約束通り戊辰戦争では新政府軍の味方となり、数々の戦いで活躍します。その後の明治時代では日本最初の政党内閣を作り、内務大臣となっています。

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ジョン万太郎

ジョン万次郎
出典:Wikipedia

江戸末期に高知県に生まれた中浜万次郎ことジョン万次郎は、幕末日本に近代アメリカを紹介し、日米の架け橋となった人物です。漁に出て遭難した末にアメリカ船に救助され、アメリカに渡りました。その後、日本とアメリカの通訳として活躍し、日米和親条約の締結に尽力。明治時代は、通訳・教師として活躍しました。

西郷隆盛(薩摩藩)

西郷隆盛
出典:Wikipedia

西郷隆盛は薩摩藩の藩士の家に生まれ、藩主である島津斉彬の側近として仕えていました。その後西郷は禁門の変に参加し長州藩を降伏させます。しかし、西郷は勝海舟の説得のもと長州藩とは協力すべきと考えており、この考えが後の薩長同盟につながることになります。

その後、西郷は戊辰戦争で新政府軍の参謀となり、活躍しましたが、西郷率いる旧薩摩藩と明治政府との戦争で敗れた西郷は自害し一生を終えます。

大久保利通(薩摩藩)

大久保利通
出典:Wikipedia

西郷隆盛とは幼馴染で、薩摩藩としても戊辰戦争でも共に戦ってきましたが、新政府では西郷の主張する征韓論に反対し西郷と対立することになります。その後西南戦争で西郷隆盛率いる旧薩摩藩の軍と大久保利通の所属する明治政府は戦うことになり、大久保は悲しみながらも明治政府軍の指揮を執り反乱を鎮めました。

しかし、敵を作りやすい政治のスタイルだった大久保は、その後暗殺されこの世を去ることになります。

木戸孝允(長州藩)

木戸孝允
出典:Wikipedia

木戸孝允は薩長同盟を結んだ長州藩の代表で、当時は桂小五郎という名前でした。薩長同盟については禁門の変の事もあり一度は断りましたが、坂本の働きにより薩摩藩を許し同盟を組むに至りました。幕府がほろびた後も新政府の基本方針を定めたり、廃藩置県などの大改革を実行していました。

木戸孝允とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績、名言や子孫、死因まで紹介】

吉田松陰(長州藩)

吉田松蔭
出典:Wikipedia

吉田松陰は叔父が開いた「松下村塾」を引継ぎ、そこで後に活躍する高杉晋作、木戸孝允などの尊王攘夷の志士を育てました。その後松陰は安政の大獄によって捕えられますが、処刑されるまで自分の倒幕の意志を広め、同じ思いを持つ者が立ち上がってくれることを願いました。これにより後に「松下村塾」で育った数々の人物たちが活躍することになります。

高倉晋作(長州藩)

吉田松陰の「松下村塾」に入った高杉晋作は吉田松陰の意志を受け継ぎ、攘夷と倒幕の考えを強く持っていました。

長州征討では幕府に味方する勢力も出てきたところを、その強い思いにより長州藩にて反乱を起こし長州藩の実権を握ることに成功し、長州藩は幕府を倒す力を得ることになりました。ですが長州征討のすぐ後に高杉は病気によって亡くなります。

dog 高杉晋作とはどんな人?生涯・歴史年表まとめ【性格や名言・辞世の句について紹介】 ​​

伊藤博文(長州藩)

伊藤博文
出典:Wikipedia

1885年に伊藤博文は初代内閣総理大臣となりました。ヨーロッパで各国の憲法を学んできた伊藤博文は様々な国の憲法を参考に大日本帝国憲法を作りました。ですが朝鮮を支配する動きを始めていたところで、朝鮮の独立運動家の安重根に暗殺されます。

その他の藩士

河井継之助(長岡藩)

河井継之助
出典:Wikipedia

河井継之助は越後長岡藩出身の士族です。戊辰戦争の一部である北越戦争で活躍しました。北越戦争ではアメリカから多くの武器を仕入れ、新政府軍と交戦しています。絶対的戦力が劣る状況でありながら、互角な戦いを見せました。しかし結果的に新政府軍が勝利し、会津に合流に向かう途中、戦闘中受けた傷が元で死去しました。

陸奥宗光(紀州藩)

陸奥宗光
出典:Wikipedia

紀州藩出身の士族です。江戸に出てくると、坂本龍馬や桂小五郎・伊藤博文などと交友を持ちました。そして海援隊に入隊。そして明治維新後は、版籍奉還・廃藩置県などに大きな影響を与え「カミソリ大臣」と異名を持っていたといわれています。不平等条約の改正にも尽力し、その敏腕は「陸奥外交」と呼ばれました。

大隈重信(佐賀藩)

佐賀藩出身の士族で、幕末は藩命で長崎に赴任し、外国人の訴訟処理などを行っていました。そして維新後は外交の手腕を見込まれ中央政権に参加。明治初期の、外交・財政・経済に大きな影響を与えました。中央政権を追放されたりもしますが、再度復帰し内閣総理大臣に2回就任しました。また早稲田大学を設立したことでも有名です。

大隈重信とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や功績を交えて解説】

欧米諸国の人物

ペリー

ペリー
出典:Wikipedia

日本を開国させたアメリカの軍人です。ペリーは日本と交渉する際、優位に立てるように軍艦から空砲を撃ったり、将軍の徳川家慶の死に国政が混乱している隙に再来航しにきたりと、かなりの外交手腕を持っていたそうです。

トーマス・グラバー

トーマス・グラバー(写真右)
出典:Wikipedia

スコットランド出身の商人で、武器商人として幕末に活躍した人物です。蒸気機関車の試走を行ったり、長崎に西洋式ドックを建設して造船の街としました。維新後も日本に留まり、造船・採炭・製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親でもあります。

タウンゼント・ハリス

タウンゼント・ハリス
出典:Wikipedia

アメリカ合衆国の外交官です。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使となりました。日米修好通商条約を結んだ人物です。1857年には江戸に入り、将軍・徳川家定に謁見。親書を渡しています。そして1858年に日米修好通商条約を結び、約3年間初代駐日本アメリカ画集国弁理公使として日本に赴任していました。

女性

楢崎龍

楢崎龍(一般的にはお龍と呼ばれている)
出典:ハナミズキ

坂本竜馬の妻だった女性です。中川宮の侍医をしていた父が死去したために生活が困窮していた頃に、坂本龍馬と出会い妻となりました。薩長同盟直後の寺田屋遭難では、お龍の機転で坂本龍馬は危機を脱しています。竜馬の負傷療養のために、鹿児島を回ったのが日本はじめての新婚旅行といわれています。

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和宮親子内親王

和宮親子内親王
出典:Wikipedia

和宮親子(かずのみやちかこ)内親王は、幕府との「公武合体」の犠牲になり、14代将軍徳川家茂の正室となりました。和宮は婚約していたためと断っていましたが、最終的に幕府に譲歩し、婚姻を結んでいます。しかし結婚してからは「徳川の女性」として尽力し、「江戸城無血開城」に大きく貢献しました。

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徳川敬子(天璋院篤姫)

天璋院篤姫
出典:Wikipedia

13代将軍徳川家定の正室だった女性です。薩摩藩の島津一門の家に生まれ、島津斉彬の養女となった上で徳川家に嫁いでいます。徳川の女性として尽力し、江戸無血開城の時は和宮とともに尽力しました。明治維新後は東京千駄ヶ谷に住み、勝海舟や和宮とあい自由気ままに暮らしていたそうです。

幕末に起きた主な出来事を年表形式で紹介

黒船来航図

ではここから幕末に起きた出来事とそれに関する重要人物を紹介していきます。

1853年:黒船が来航する

1853年7月にペリー率いるアメリカの軍艦が4隻、神奈川県の浦賀に現れ、この軍艦は黒く塗られていたため「黒船」と呼ばれることになりました。

当時の幕府は外国とは交流しない「鎖国」という政策をしていたのですが、ペリーは「日本と交流をしたい」というアメリカの意志を日本に伝えます。それに対して幕府は返答に猶予を貰い黒船は日本を去ることになります。

それから半年後、再びペリーは来航し幕府は日米和親条約を結ぶことになり、200年以上続いてきた鎖国が解かれました。この黒船の来航は、幕末に活躍する人物たちに大きな影響を与えることになります。

1860年:大老・井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変)

1860年に尊王攘夷派の志士たちは、江戸城の桜田門外で幕府の最高職である大老・井伊直弼を襲い殺害しました。これを桜田門外の変と言います。幕府の最高職が尊王攘夷派に殺されたことで、幕府の権威はこれ以降大きく衰えることになりました。

1864年:新選組が尊王攘夷派を捕らえる(池田屋事件)

1864年新選組の局長近藤勇は、京都の池田屋にいた長州藩の尊王攘夷派を発見し激しい戦闘が起こります。新選組は4人で池田屋にのりこんだため苦戦しますが、後に副長の土方歳三を含む24人の志士達が到着し尊王攘夷派を9人殺害、20人以上を捕まえることに成功しました。

1864年:長州軍が御所に攻め込む(禁門の変)

池田屋事件がきっかけで長州藩は幕府に怒り、朝廷に無実を訴えるために天皇の住んでいる御所へ進軍します。

これに対し朝廷は長州藩を敵とみなし討つように幕府に命令し、これにより薩摩藩と会津藩が禁門を守り長州軍を迎え撃ちました。結果として西郷隆盛率いる薩摩藩の力が強く、長州軍は大敗することになります。

1865年:坂本龍馬によって薩長同盟が結ばれる

1865年坂本龍馬は西郷隆盛に長州藩と手を結ぶように訴えました。西郷も同じ考えだと賛成しましたが、長州藩は西郷率いる薩摩藩から攻撃を受けていたため、そう簡単には同盟を組むことはできません。そこで坂本龍馬が間に入って仲直りをさせ、薩長同盟を結ぶことが出来ました。

お互いが手を組んで新しい社会を作るという形で作られた同盟ですが、この同盟がこの後の倒幕にもつながっていくことになります。

1866年:長州征討で長州藩が幕府に勝利する(長州征討)

1866年、長州藩が最新の武器を集めていることを嗅ぎつけた幕府は西日本の32藩に長州藩へ攻撃するように指示しました。長州軍3500人のところ幕府軍は約15万人と圧倒的な数の差がありましたが大村益次郎、高杉晋作の活躍により、長州軍が幕府に勝利します。

1867年:大政奉還によって江戸幕府がほろびる

1867年に長州藩と薩摩藩が武力で幕府を倒す動きをし始めることになります。戦争はするべきではないと考えていた坂本龍馬は、将軍が政権を朝廷に返す「大政奉還」を唱え、この案は将軍徳川慶喜まで伝えられました。

これを受け入れた慶喜はすぐさま朝廷に大政奉還を申し出、これにより260年以上続いた江戸幕府はほろびることになります。

1868年:新政府軍と旧幕府勢力による戊辰戦争が勃発

戊辰戦争の動き

大政奉還後も徳川慶喜は自身の経済力を使い新政府に入り実権を握ろうと考えます。ですが慶喜は新政府に領地を朝廷に返すように命令されたことで新政府と対立し、旧幕府軍と新政府軍の戊辰戦争が始まることになります。

旧幕府軍は兵士の数は多かったのですが、新政府軍の最新の武器による攻撃で敗戦します。

幕末の人物関係がよく分かるおすすめ作品

幕末の主な出来事と人物はここまで簡単に説明してきましたが、幕末に関する作品に触れるともっと深く様々な側面から幕末を楽しむことができます。

ここからは映画、ドラマ、本、漫画の4種類に分けて幕末の人物関係が良く分かるおすすめの作品を紹介していきます。

映画

桜田門外ノ変


2010年に公開された映画でタイトル通り井伊直弼が殺害された桜田門外の変が主軸に物語です。桜田門外の変の実行部隊の指揮者である関鉄之介の視点で話が展開していきます。関鉄之介は大沢たかおが演じており、内容も分かりやすく非常に人気の作品です。

福沢諭吉


少年時代から慶應義塾設立に至るまでの福沢諭吉の半生を描いた作品です。福沢諭吉は明治時代になってからの「学問のすすめ」の刊行や慶応義塾設立などが有名なエピソードですが、そんな福沢が幕末の激動の時代をどう生き抜いていたのかを知ることができます。

ドラマ

龍馬伝


2010年に放送されたNHK大河ドラマで福山雅治が主演です。題名通り坂本龍馬の生涯を描いた作品で、放送回数の長いNHK大河ドラマなだけあって数多くの幕末の人物が登場します。それぞれの人物の関係性が良く分かるので、幕末の人物をもっと知りたいという方にはぴったりの作品です。

西郷どん


西郷どんは2018年に放送されたNHK大河ドラマです。比較的最近の作品なので古臭さが無く非常に見やすく、放送回数も長いので内容もしっかりしています。

脚色が多くあり、歴史好きには賛否の分かれる作品と言われていますが、人物関係が非常に分かりやすくなっています。これから幕末を知っていきたい方におすすめの作品です。

竜馬がゆく


1963年から1966年にかけて刊行された、坂本龍馬を主人公とする長編小説です。良く知られている坂本龍馬のつかみどころがない性格は、この本の影響が大きいとされています。

これまでも何度かドラマ化されており、非常に有名な作品です。幕末でも特に人気の人物である坂本龍馬の事を知りたいのであれば一度は読んでおきたい本です。

燃えよ剣


燃えよ剣は新選組副長の土方歳三の生涯を描いた小説です。こちらも映画、ドラマ、舞台と様々なメディアで展開されている作品で、幕末でも非常に人気の高い組織である新選組にフォーカスがあてられるため新選組が好きな人には特におすすめの作品です。

漫画

JIN―仁―


JIN―仁―はドラマ化もされた全20巻の漫画で、現代の医師が幕末へタイムスリップし、活躍するというSF要素の強い作品です。ですが、実際の幕末の人物が数多く登場し、非常に幕末の人間関係が分かりやすく描かれています。

少し他とは味の違う幕末を描いた作品が見たいのであればJIN―仁―は非常におすすめです。

ちるらん 新撰組鎮魂歌


ちるらん 新撰組鎮魂歌は新選組を主に描いた漫画です。新選組が不良少年グループのように描かれており、バトル漫画のような展開になっています。しかしそれ故に幕末を全く知らなくても読みやすく、幕末には詳しくないけどこれから幕末の事を知っていきたいという方にはおすすめです。

まとめ

今回は幕末の人物についてまとめていきました。

幕末の人物はみんなそれぞれ信念をもって動き、それぞれの戦いを繰り広げてきました。そのため新政府軍を正義と見たり、旧幕府軍を正義と捉えたりと様々な見方をすることができます。

また様々な人物を知ることによって、幕末のお気に入りの偉人を見つけるのも非常に楽しいです。幕末の人物について確認したくなったら、またこの記事を参考にしていただければと思います。

【年表付】幕末とはどんな時代だった?歴史の流れ・出来事・人物まとめ

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