明治時代ってどんな時代?出来事や年表、重要人物、文化などをご紹介

立憲国家への道のり

板垣退助らが提出した民撰議院設立の建白書

1873年に下野した板垣退助は、1874年に後藤象二郎、江藤新平らと共に「愛国公党(あいこくこうとう)」を結成。士族・平民らにも参政権を与えるべきであると主張し、政府に対して「民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」を提出しました。ここから、板垣らを中心に、平民も政治に参加できる権利を主張する「自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)」が高まりました。

1876年、士族の力を弱めるため政府は、財政的な負担となっていた士族への給料(秩禄(ちつろく))を大幅に減らす「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」と殺伐とした空気を取り除くという意味を込めた「廃刀令(はいとうれい)」を発布。この二つの法令に対し、士族は政府への不満を高めました。

不平士族最大の反乱「西南戦争」

その結果、不満を持った士族による反乱が各地で起きました。中でも最大の戦いとなったのが、1877年に西郷隆盛らを中心とした「西南戦争(せいなんせんそう)」です。この戦いに政府軍は約8か月の歳月をかけて勝利、しかし、戦争のさなかに木戸が病死、反乱士族側の大将であった西郷は自刃、そして、政府側であった大久保は不平士族により暗殺。「維新の三傑」が倒れたことにより、この時期から元老院と薩長藩閥による政権体制が強まることになりました。

1880年ごろから自由民権運動の目的である「国会開設」を望む声が全国へと拡大しつつありました。板垣らは「愛国社」などの政党を設立し、国会開設を求む署名活動などを行っておりました。また、政府でも国会開設を望む声があったものの、「開拓使官有物払い下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん)」により政府から追放されるといった事件がありました。

10年以内の国会開設を約束した「国会開設の詔」

こうした動きの中、政府は1881年に「国会開設の詔(こっかいかいせつのみことのり)」を発布し、1890年までに議会を解説することを約束。板垣らは新たに「政党」を結成し、この国会開設に向けた準備を図っておりましたが、各地で党員などが事件を起こすなど、自由民権運動は次第に衰退していきました。

1882年には参議であった伊藤博文が中心となり、欧米諸国を歴訪。その中で伊藤は日本の新たな政治体制として「内閣制」を導入、初代内閣総理大臣に就任いたしました。伊藤は総理大臣として地方自治制、教育勅語(きょういくちょくご)、そして、大日本帝国憲法の発布に尽力しました。

立憲国家としての第一歩「大日本帝国憲法の発布」

1889年2月11日に、明治天皇から「大日本憲法発布の詔勅(だいにほんていこくけんぽうはっぷのしょうちょく)」を受け、国民に向けて「大日本帝国憲法」が公式に発布されました。この憲法はドイツのビスマルク憲法をモデルに作られたもので、君主によって制定された憲法という「欽定憲法(きんじょうけんぽう)」という形式になっております。この憲法の発布により、日本は憲法を有する「立憲君主国家(りっけんくんしゅこっか)」として新たに生まれ変わりました。

日清・日露戦争ってどんな戦争?

朝鮮を巡り、日本と清が対立しその奥でロシアが眺めているという構図「日清戦争風刺画」

1882年の壬午事変(じんごじへん)などの事件が契機となり、日本は朝鮮を巡り清国との対立を深めておりました。そして、1894年に朝鮮国内で勃発した甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)をきっかけに日清両国が朝鮮へと出兵し、両軍とも戦争が終結しても朝鮮に滞在し続けました。これが「日清戦争(にっしんせんそう)」の始まりです。

結果として日本は清に勝利し、下関条約にて清から「朝鮮の独立」「遼東半島(りゃおとんはんとう)、台湾、澎湖諸島(ぽんふーしょとう)の領土割譲(りょうどかつじょ)」といった権利を勝ち取ることが出来ました。しかし、この日本の対応にロシア、フランス、ドイツが反発(三国干渉)。遼東半島の放棄を訴え、日本はこれを受諾し、結果、遼東半島は清へと返還されました。

イギリスとともにロシアへ斬りかかる日本と、それを眺めるアメリカ「日露戦争風刺画」
出典:日露戦争

ロシアは清への圧力を強めつつ、満州国(まんしゅうこく)などに兵を滞在しておりました。日本はロシアの南下政策を食い止めるべく、同じくロシアを警戒していたイギリスと同盟を組むことになりました。これが「日英同盟」です。

そして、1904年に朝鮮半島などを舞台に「日露戦争(にちろせんそう)」が開戦しました。戦争の結果、日本海海戦にて「無敵艦隊」と呼ばれたバルチック艦隊を打ち破ったことが決定打となり、ロシアに勝利しました。しかし、ポーツマス条約において賠償金が取れなかったことに対し国民は激怒、日比谷焼き討ち事件と言った暴動が起こりました。

日清、日露戦争の勝利において日本は諸外国とも対等に渡り合える戦力を持っていることが世界へと知れ渡り、長年の課題であった不平等条約の改正が徐々に改善されていきました。こうして、西欧列強と並ぶ近代国家づくりは一つの到達点を迎えたのです。

明治時代の人々はどんな生活を送っていたのか

どんな髪型や服装だった?

様々な髪型が掲載された束髪図解

江戸時代頃まで女性の主流の髪型は島田髷や勝山髷というように、大きくて派手な髷(まげ)を結うのが主流となっていました。しかし、明治時代になると洋装の文化が取り入れられたと同時に、飾りなどはシンプルなものへと変貌していきました。また、男性の髪型もちょんまげから文明開化の象徴ともいわれる「散切り頭(ざんぎりあたま)」へと徐々に変貌していきました。

上述の図は「束髪(そくはつ)」と呼ばれる髪型で、西洋の髪型を参考に考案された新しい髪型です。それまでの髷はセッティングするのに非常に時間がかかり、整髪油で固め、1か月ほど放置するという不衛生なものだったのです。そこで、明治半ばごろにこの束髪が新聞などで紹介されると瞬く間に全国へと広がり、この髪型が主流の髪型となりました。

上野不忍池競馬図
出典:Wikipedia

また、ファッションにも変化が訪れました。まず、西洋の軍制が取り入れられると、軍服が洋装になり、その後、政府役人や警察官、郵便局員と言った公的な職業を持った人々は優先的に洋装となっていきました。しかし、この当時の洋装はとても高く、庶民には到底着ることのできないものでした。

開化好男子

なので、明治の庶民は和装と洋装を取り入れたファッションを楽しむという文化が定着していきました。男性で言うと、夏目漱石の小説「坊ちゃん」の主人公のような上が洋装で下が袴といった服装など、「和洋折衷(わようせっちゅう)」のようなスタイルが流行していきました。

また、女性はほぼ和装のままだったのですが、看護婦などの職業は洋装となり、華族の令嬢などはバッスルスタイルと呼ばれる腰当てをつけボリューム感を出したドレスを着用する機会が増えたそうです。

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