【保存版】日本文学史とは?その魅力や歴史、代表作品を年表順に解説

日本文学とはその名の通り、日本語で書かれた文学作品、または日本人が書いた文学、もしくは日本で発表された文学のことを指します。この記事では、日本文学の歴史や、その魅力、それぞれの時代の代表作品などを年表順で解説していきます。

日本文学の第一人者はもちろん、隠れた著名人の代表作品や人物像、意外と知られていない名作まで網羅しています。日本文学好きな方は、是非最後までお付き合い頂ければと思います。

それではどうぞ。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

日本文学史の魅力

日本文学史の魅力は何でしょうか?複雑なことは抜きにして筆者の考える魅力をまとめます。

1. 歴史の中に飛びこむ、という魅力

歴史に飛び込む魅力

日本文学史の特徴をあげるとすれば、千数百年という長い年月にわたって、同じ日本語による作品が残されているという点です。

四方を海に囲まれ、他人種や他文化による混乱も比較的少ないままに現代までつづいてきた日本では、歴史がそのままのかっこうで、積み木のようにつまれてきたと見ることができます。

過去の作品を読むことにより、われわれは歴史の中に、いつでも、飛びこむことができるのです。このことの幸福さをもっと感じるべきではないでしょうか。

2. 人間本来の姿や生き方を知る、という魅力

生きるためのヒントが隠されている

文学作品というと、とかく、取っつきにくいと感じる方も多いようです。しかし敢えて、ここはあまり構えずに、とにかく読んでみることが必要です。

なぜなら、書かれた時代は違えど、文学作品の核心は「人間の本来の姿」であり「生き方」を描くものだからです。21世紀を生きる私たちに他人の、まして昔の人の生き方なんて関係ないじゃない……、などと思うなかれ。

今も昔も、その時代を生きるのは人間に他なりません。人生につきものの苦しみや悩みも、過去に誰か乗り越えた人がいるはずなのです。生きる上で、本当にたくさんのヒントが詰まった文学。その世界を、ぜひ一緒に覗いてみましょう。

日本文学史の略歴年表


592〜793年
飛鳥・奈良時代=飛鳥文化・白鳳文化・天平文化

592年に飛鳥に都がおかれ、以後710年の平常遷都までが飛鳥時代とよばれる時代です。推古天皇・聖徳太子の政治、蘇我氏が政治を独占した時代と大化の改新などを経て奈良時代(710年の平城京遷都~)へと続いていくことになります。

701年には、の律令制度をもとに大宝律令を制定して中央集権国家の基礎をつくるなど、この時代に「日本」という国のかたちができました。また、仏教や漢字が輸入され、日本国内で漢文の使用が広まるにつれ、話し言葉に漢字をあてた「万葉かな」が普及をはじめます。

また、この間、伝来した仏教が中心の飛鳥文化、より本格的に仏教文化を受容した白鳳文化、遣使による天平文化などが栄えます。

日本文学史では「上代」という区分にあたり、この時代に著された代表的な作品には次のようなものがあります。

  • 712年『古事記』(紀伝体の歴史書)
  • 720年『日本書紀』(編年体の歴史書)
  • 752年『懐風藻』(最古の漢詩集)
  • 759年『万葉集』(最古の和歌集)

794〜1184年
平安時代=弘仁貞観文化・国風文化

794年、平安京への遷都が実施され、時代は平安時代に突入します。奈良時代の反省から、仏教勢力の政治介入を防ぐため寺院と距離をおくなど、遷都には新風を入れようという思想がありました。

朝廷による中央集権体制が強化される一方、地方統治は緩慢になりました。また荘園という律令体制の矛盾が、中央での権力争いを刺激し、同時に地方での「自衛のための武装」というニーズを生みます。

やがて、武士がうまれることとなります。貴族の雅なくらしを連想しがちな平安時代ですが、その裏では武士がうまれ、貴族の代替勢力となるほどに育った時代ということができます。

日本文学史では「中古」という区分にあたり、この時代に著された代表的な作品には次のようなものがあります。

  • 814年『凌雲集』(最古の勅撰漢詩集)
  • 905年『古今和歌集』(最古の勅撰和歌集)
  • 934年『土佐日記』(紀貫之)
  • 950年頃『竹取物語』(作者不明)
  • 1001年『枕草子』(清少納言)
  • 1008年『源氏物語』(紫式部
  • 成立年不詳『大鏡』(作者不明)

1185〜1602年
鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代

1185年、源頼朝が全国に守護・地頭を設置し鎌倉時代が始まります。以降、政権の運営主体が朝廷から幕府へと移行します。1333年の鎌倉幕府滅亡後、一時的に後醍醐天皇による建武新政が図られるも、武家勢力の支持を失い失速しています。

1336年に室町幕府(足利氏)が成立しますが、強大な権力をもつには至りません。将軍後継問題などから全国的な戦乱をよび、1573年に崩壊します。各地の戦国大名による戦乱(戦国時代)を経て、安土桃山時代(織田氏、豊臣氏)へと武家による政治がつづきました。

その間、鎌倉文化、北山文化、東山文化、桃山文化と武家政権によって保護される形での文化が興っています。

日本文学史では「中世」という区分にあたり、この時代に著された代表的な作品には次のようなものがあります。

  • 成立年不詳『山家集』(西行)
  • 1212年『方丈記』(鴨長明)
  • 1330年『徒然草』(吉田兼好)
  • 成立年不詳『平家物語』(著者不明)

1603〜1867年
江戸時代

1600年、徳川家康は石田三成率いる西軍を関ケ原の戦いで退けると、征夷大将軍となり、江戸に幕府をひらきます。その後も大坂の陣などで全国への支配を盤石なものにしてゆきます。

江戸幕府は、鎖国政策をとり海外との交流を限定的にしたほか、武家諸法度や禁中並公家諸法度により諸大名ばかりでなく天皇・公家をも統制下におきます。また庶民の生活も厳しく監視しました。

文化的側面では、貨幣経済化を背景に庶民を中心とした文化がさかえ、江戸前期の元禄文化(京・大阪中心)と、江戸後期の文化文政文化(江戸中心)に大別されています。

日本文学史では「近世」という区分にあたり、この時代に著された代表的な作品には次のようなものがあります。

  • 1682年『好色一代男』(井原西鶴
  • 1690年『万葉代匠記』(契沖)
  • 1694年『おくのほそ道』(松尾芭蕉
  • 1703年『曽根崎心中』(近松門左衛門)
  • 1716年『折たく柴の記』(新井白石)
  • 1768年『雨月物語』(上田秋成)
  • 1795年『玉勝間』(本居宣長
  • 1798年『古事記伝』(本居宣長
  • 1802年『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)
  • 1814年『南総里見八犬伝』(曲亭馬琴)
  • 1820年『おらが春』(小林一茶
  • 1825年『東海道四谷怪談』(鶴屋南北)

1868年
明治時代、大正時代、昭和時代

ペリー来航後、条約締結と開国により激化した尊皇攘夷運動は、1867年の大政奉還に伴う明治政府の樹立によって一応結実します。いわゆる明治維新です。その後の日本は文明開化や富国強兵を急ぎますが、その反作用として、大正時代には盛んにデモクラシー運動が展開されました。

欧米列強の帝国主義が相剋する国際情勢のなか、日本国内では軍部の台頭を抑えることができず、大平洋戦争の勃発をまねくことになります。そして、昭和20年8月15日、日本は敗戦の日を迎えることとなりました。

日本文学史では「近代・現代」という区分にあたり、この時代に著された代表的な作品には次のようなものがあります。

  • 1885年「小説神髄」(坪内逍遥
  • 1889年「浮雲」(二葉亭四迷
  • 1891年「五重塔」(幸田露伴)理想主義
  • 1890年「舞姫」(森鴎外)ロマン主義
  • 1895年「たけくらべ」(樋口一葉
  • 1899年「天地有情」(土井晩翠)
  • 1906年「破戒」(島崎藤村)自然主義
  • 1914年「こころ」(夏目漱石
  • 1915年「羅城門」(芥川龍之介
  • 1935年「雪国」(川端康成)
  • 1940年「走れメロス」(太宰治
  • 1943年「細雪」(谷崎潤一郎)
  • 1949年「仮面の告白」(三島由紀夫


日本文学史の具体年表

592年~793年「飛鳥時代・奈良時代」

仏教の受容と国策による保護

仏教が保護された時代

538年(一説には552年とも)、日本に伝来した仏教は、飛鳥文化をはじめその後の日本文学史にも大きな影響を与えました。

一方で、日本古来の宗教観あるいは天皇家の歴史といったものへの意識も強く感じるのが、飛鳥・奈良時代の特徴でもあります。

この時代に「古事記」「日本書紀」といった歴史書が相次いで編纂されたのも、仏教の伝来とそれに伴う価値観の変容があったのではないかと考えられます。

飛鳥・奈良時代に活躍した文学関係者は?

  • 太 安万侶(大和国(現在の奈良県)出身)
  • 舎人親王(大和国(現在の奈良県)出身)

不詳年 – 723年「太安万侶(おおの・やすまろ)」

古事記編纂に尽力した飛鳥時代の名編集者

太安万侶

太安万侶は、古事記編纂に活躍したことが伝えられています。ただ、古事記そのものを執筆したわけではなく、稗田阿礼が暗誦していた神話や伝承、歌謡を聞き取り、とりまとめたと言われています。つまり執筆者ではなく編集者であったということです。

歴史書であるとともに、文学的価値の高さに対する評価も高い書籍です。さらに特筆すべきは、この時代の日本において、こうした歴史書を編纂するだけの文化的背景と技術とが存在したということです。

太安万侶の名言

臣安万侶言さく、夫れ混元既に凝りて、気象未だ效れず。名も無く為も無し。(現代語訳:臣下の安万侶が申し上げます。宇宙の始まりは混沌としていて、ハッキリとしていませんでした。そこに世界を成す根元が固まってきたのですが、まだまだ名づけようもない状態でした。 )/「古事記」

歩驟各異に、文質同じからずといえども、莫不古を稽へて風猷を既に頽れたるに繩し。今に照らして典教を絶えむとするに補はずということなし。(現代語訳:歴代天皇の政治にはそれぞれに違いがあり、派手なものや地味なものもありますが、風教道徳の衰えを正し、現在に照らして参考にすることができるだろう。) /「古事記」

676年 – 735年 「舎人親王(とねり・しんのう)」

日本書紀編纂に尽力した飛鳥・奈良時代の政界の実力者

舎人親王

舎人親王は、天武天皇の第3皇子として生まれました。天武天皇から日本書紀の編纂を命じられ、これを主宰して完成させました。

政界においても有数の実力者として名を馳せます。その証として、亡くなった際の葬儀は太政大臣相当のもので、死後には太政大臣の位まで贈られています。

舎人親王の名言

古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。 (現代語訳:昔、まだ天と地が分かれておらず陰と陽が分かれておらず混沌としていて鶏の卵のようでした。 )/「日本書紀」

故曰、開闢之初、洲壞浮漂、譬猶游魚之浮水上也。(現代語訳:世界が生まれたとき国は漂っていました。それは魚が水に浮かんでいるようでした。 ) /「日本書紀」

794年「平安時代」

国風文化と女流文学の開花

都が大和国の平城京から、山城国の平安京に移り、桓武天皇の思惑どおり時代は刷新されました。もう一つ大きな変化があったとすれば、それは遣使の廃止ではないでしょうか。

遣唐使廃止後も、民間貿易は継続されており、中国の文物は日本に届いていたとされています。ただ、「遣唐使廃止」というセンセーショナルな情報が、それぞれの文化人をして、日本という国柄を意識させたことには間違いでしょう。

平安時代に活躍した文学関係者は?

  • 紀貫之(山城国(現在の京都府)出身)
  • 清少納言(山城国出身)
  • 紫式部(山城国出身)

866年※ – 945 年「紀貫之」

※ 出生年については、872年とする説もあります。

「土佐日記」を著した和歌の名手・紀貫之の歌は幸運を招く!?

紀貫之

紀貫之は、名門紀氏の出でありながら、当時は藤原氏が権勢を誇った時代であり、官人としての栄達は期待できない境遇にありました。実際、従五位の上、木工権頭 (もくのごんのかみ)というのが彼の官人としての位階にあたります。

ただ、紀貫之には和歌の才能があり、古今和歌集以後の勅撰和歌集において450首を越える入選を果たしています。「貫之の歌は慶事をよぶとか」との噂が当時からあったようで、「ぜひ欲しい」という注文が殺到したことでしょう。

紀貫之の名言

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。/「土佐日記」

やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける/「古今和歌集」

966年 – 1025年「清少納言」

枕草子を著した「をかし」の元祖・女流エッセイスト

清少納言

清少納言は、歌人・清原元輔の子として生まれました。れっきとした歌人家系の出身です。一条天皇の中宮定子に出仕したことをきっかけに、宮廷生活を送るようになります。

宮廷での清少納言は、その突出した機転と才知によって一目置かれる存在でした。一時政治的な不遇に見舞われた際にも、「枕草子」を著しかえって注目を集めるなど、やはり非凡な人と言えます。

清少納言の名言

春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。/「枕草子」

過ぎにし方恋しきもの。枯れたる葵。雛あそびの調度。二藍、葡萄染などのさいでの、押しへされて、草紙の中にありける、見つけたる。また、折からあはれなりし人の文、雨など降り徒然なる日、探し出でたる。去年のかはぼり。/「枕草子」

970年 – 1016年「紫式部」

「源氏物語」を著した「あはれ」の元祖・女流小説家

紫式部

紫式部は、学者で詩人の藤原為時の子として生まれました。幼い時分に母を亡くし、父親に育てられています。藤原宣孝に嫁ぎ一女をもうけますが、宣孝と死別。その後に源氏物語を執筆を開始したとされています。

その後、文才が知られるようになり、一条天皇の中宮定子に仕えるため、宮廷生活を送るようになります。その傍ら、源氏物語を書き終えたとされています。

紫式部の名言

めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半(よは)の月かな/「小倉百人一首」

かぎりとて 別るる道の 悲しきにいかまほしきは 命なりけり。/「源氏物語(桐壷)」

1192年「鎌倉時代」

貴族の世から武士の世へ

時代は武士の世へ

源頼朝が鎌倉に幕府を築き、政治の実権は朝廷から幕府ヘと移行して行きます。この背景には、荘園という私領を守る武士(自作農)が台頭したことと、彼らを統率する(源氏や平家といった)主従関係が発達したことにあります。

全国に守護・地頭をおいて支配を強化する幕府に対し、朝廷方も巻き返しをはかりました。しかしその実現は、二度にわたる元の襲来を経て、1333年を待たねばなりませんでした。

鎌倉時代に活躍した文学関係者は?

  • 藤原定家(山城国(現在の京都府):新古今和歌集を編む
  • 鴨長明(山城国:方丈記を著す)
  • 吉田兼好(山城国:徒然草を著す)

1162年 – 1241年「藤原定家」

「新古今和歌集」編纂に尽力、どこまでも自分を曲げなかった歌聖

歌を巡って喧嘩をすること数知れず、相手が少将だろうと上皇だろうと己の信念は決して曲げない。それが藤原定家です。歌を通して己の美学をひたすら追求しました。

勅撰八大和歌集の最後を飾る「新古今和歌集」の編者として有名ですが、持病を抱えつつも、家集、歌論書、日記などおびただしい作品群を残しました。

藤原定家の名言

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ/「 新古今和歌集」

和歌に師匠なし。唯旧き歌を以て師と為す。/ 「詠歌大概」

1155年 – 1216年「鴨長明」

「方丈記」を著した、不運の神職の歌才と文才

鴨長明

鴨長明は、禰宜・鴨長継の次男として生まれました。父が早世すると後ろ盾を失い、禰宜としての立身にはことごとく失敗します。出家して書いた作品の一つが日本三大随筆のひとつ「方丈記」です。

「千載和歌集」への入集をはじめ数々の和歌の実績が評価され、40代半ばで和歌所寄人に任命されるなど、歌人として活躍しました。また、琴や琵琶など管弦の名手であったとも言われています。

鴨長明の名言

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし/「方丈記」

世に従へば、身苦し。従はねば、狂せるに似たり。/「方丈記」

1283年 – 1352年「吉田兼好」

「徒然草」を著した、謎めいた素性と出家

吉田兼好

吉田兼好は、治部少輔・卜部兼顕の子で本名は卜部兼好とされています。しかし、同時代資料にこの親子関係を裏付ける資料がないことから、同じ卜部姓ながらまったくの別人説もあり、謎めいています。

出家したため兼好法師とも呼ばれますが、出家の理由も定かでありません。また、室町幕府の高官・高師直のラブレターを代筆するなど、色々ミステリアスな一面を持っています。

吉田兼好の名言

勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり/「徒然草」

あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ/「徒然草」

1334年「室町時代・安土桃山時代」

武家政権の第二ステージ

花の御所 室町殿

建武の新政が武士層の支持を得られず、朝廷は南北に分裂(南北朝時代)、さらに室町幕府が開かれます。鎌倉期をへて各地に実力が育ったことが背景にあります。

下克上に象徴されるように、権威よりも実力主義の時代へと移行したこの時代。文学もまた、特定の階層のものではなく、ひろく庶民に親しまれるようになりました。

室町時代に活躍した文学関係者は?

  • 世阿弥(伊賀国(現在の三重県伊賀市):「風姿花伝」を著す)
  • 一条兼良(山城国(現在の京都府):「日本書紀纂疏」、「花鳥余情」などを著す)

1363年 – 1443年「世阿弥」

「風姿花伝」を著し、権力に翻弄された悲運のアーティスト

数々の能(猿楽)の演目を残した

世阿弥は、猿楽者であった父・観阿弥の子として生まれました。幼い頃から猿楽中心の生活を送り、父とともに京で興行を行ったところを将軍義満に見初められます。以降将軍家の庇護を受け一座は隆盛します。

しかし、将軍義教の頃には、弾圧を受けるようになり、息子の元雅も早世してしまいます。苦難の中、世阿弥が残した演目は現代にまで受け継がれ、その著作「風姿花伝」は文学作品としても高く評価されています。

世阿弥の名言

年々去来の花を忘るべからず/「風姿花伝」

よき劫の住して、悪き劫になる所を用心すべし/「風姿花伝」

1402年 – 1481年「一条兼良」

「花鳥余情」などを著した日本古典文学研究の先駆け

日本古典文学研究の第一人者

一条兼良は、父・経嗣の六男として生まれました。左大臣、摂政、関白、太政大臣などを歴任する有力公卿でした。兼良の抜きん出た学才は敵なしだったようで天皇ばかりか足利将軍家からも厚い信頼を受けています。

日本書紀や源氏物語などの古典文学を研究し、それぞれ「日本書紀纂疏」、「花鳥余情」などの書籍を著しています。「日本無双の才人」との評判が当時からありました。

一条兼良の名言

いにしへをみきのつかさの袖の香や奈良の都にのこる橘/「南都百首」

あかざりし人の契りのあさねがみ我が手枕にまたもみだれず/「永享百首」

1603年「江戸時代」

完成度の高い封建社会へ

270年続く徳川幕府の時代

織豊政権を引き継ぐ形で成立した徳川幕府は、緻密な幕府職制や大名配置、諸法度による統制、鎖国による貿易の独占などにより、約270年もの間政権を掌握し続けました。

この間、いわゆる太平の世は、文学史にとって巨大な培養土のようなものとなり、江戸時代には多くの文学者が現れ、多くの書籍が世に送り出されました。

江戸時代に活躍した文学関係者は?

  • 井原西鶴(紀伊国(現在の和歌山県):「好色一代男」などを著す)
  • 松尾芭蕉(伊賀国(現在の三重県):「おくのほそ道」などを著す)
  • 近松門左衛門(越前国(現在の福井県):「曽根崎心中」などを著す)
  • 上田秋成(大和国(現在の奈良県):「雨月物語」などを著す)
  • 本居宣長(伊勢国(現在の三重県):「古事記伝」)
  • 十返舎一九(駿河国(現在の静岡県):「東海道中膝栗毛」を著す)
  • 曲亭馬琴(江戸:「南総里見八犬伝」を著す)

1642年 – 1692年「井原西鶴」

「好色一代男」を著し、小説が大ヒットしてしまった俳諧師

井原西鶴といえば、「好色一代男」に「好色五人女」「好色一代女」など浮世草子の作家として有名で、教科書にもそのように載っています。ただ、もともとは俳諧師として名を立てた人で、一昼夜の作句数を競う矢立俳諧を得意としていました。

40歳の頃「好色一代男」を著したことが転機となり、その後は作家としてを道を歩みます。好色物だけでなく、雑話物や歴史物も書きました。人間の営みに対する慈愛が共感を呼び、明治以後再評価をされています。

井原西鶴の名言

生あれば食あり、世に住むからには何事も案じたるがそんなり。/「日本永代蔵」

辞世、人間五十年の究り、それさへ我にはあまりたるに、ましてや ○浮世の月見過しにけり末二年/辞世の句

1644年 – 1694年「松尾芭蕉」

「おくのほそ道」などを著し、俳諧を芸術に押し上げた俳聖

松尾芭蕉

松尾芭蕉は、伊賀上野(三重県伊賀市)の生まれです。奉公先の主君の影響で俳諧の道に入り、貞門俳諧を学びました。のち江戸に出て檀林俳諧にふれ、その後独自の作風を打ち立てて行きます。

蕉風と呼ばれる芭蕉の作風は、侘び寂びや哲学的な表現を盛り込み、それまで言葉遊びとされてきた俳諧を芸術に押し上げようとするものでした。この功績ゆえに、芭蕉は今でも俳聖と呼ばれています。

松尾芭蕉の名言

古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ/「風俗文選」

月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかう年もまた旅人なり。/「おくのほそ道」

1653年 – 1725年「近松門左衛門」

「曽根崎心中」などを著し、紆余曲折の生んだ浄瑠璃・歌舞伎作家

近松門左衛門

近松門左衛門は、越前藩士の子として生まれました。のちに父が浪人し一家で京に移住します。息子の門左衛門もまた公家に仕える身となりました。有職故実を学ぶうち、さまざまな文芸に触れる機会も増えたはずです。

のち、浄瑠璃作家としての道に入り、31歳の頃「世継曽我」を執筆し人気を博します。有名な「曽根崎心中」に加え「国性爺合戦」「心中天の網島」など多くの浄瑠璃・歌舞伎を残しました。

近松門左衛門の名言

侍とても尊からず、町人とても卑しからず。尊きものはこの胸一つ。/「夕霧阿波鳴渡」

我人に辛ければ人また我に辛し。/「傾城(けいせい)酒呑童子」

1734年 – 1809年「上田秋成」

「雨月物語」を著し、複雑な出自と養父の祈り

上田秋成

上田秋成は、大坂の生まれですが、実父は分かっていません。4歳のときに堂島の紙油商嶋屋を経営する上田家の養子となります。翌年痘瘡にかかり生死の境を彷徨いますが、養父が延命の祈りを乞い、68年の寿命が与えられたとの伝説があります。

成長した秋成は、俳諧、和歌、国学などを学び、次第に作家としての頭角をあらわすようになりました。代表作「雨月物語」のほか、「肝大小心録」「春雨物語」などでも知られています。

上田秋成の名言

長き夢 見果てぬほどに わが魂(たま)の 古ゐ(井)におちて 心さむしも/辞世の歌

硯なめらかなりても堅きに過ぐれは墨を鈍ならしむ/「藤篭冊子」

1730年 – 1801年「本居宣長」

本居宣長

古事記伝」で知られ、医を志すも王朝文化への思いが勝る

本居宣長は、伊勢の商家の次男として生まれました。父の死後、叔父を頼り江戸に出るもその後伊勢に戻り、養子に出るも離縁して戻りと複雑な境遇にありました。

22歳の頃、医学を志し京で学ぶうち、和歌や国学にふれ、さらに王朝文化への思いが高じて「古事記」「源氏物語」などの古典研究に打ち込むようになりました。

本居宣長の名言

才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思いくずおれて、止ることなかれ。/「うひ山ぶみ」

かぎりを行うのが人の道にして、そのことの成ると成らざるとは人の力に及ばざるところぞ。/「玉くしげ」

1765年 – 1831年「十返舎一九」

転身を重ねたからこそ得たヒット作、東海道中膝栗毛」を著した十返舎一九

十返舎一九

十返舎一九は、駿河国の奉行所同心の家に生まれました。江戸へ出て武家奉公、さらに大坂へ出て奉行所勤務と転身を重ねます。のち、浄瑠璃の世界に入り作家となります。

30歳頃に江戸に戻ると、器用さを活かして挿絵や版下作成を一人で取り仕切る作家となり重宝されます。多才でもあり、香や落語・狂歌といった文芸に通じました。「東海道中膝栗毛」のヒットの裏には、こうした影の努力があったわけですね。

十返舎一九の名言

この世をば どりゃお暇(いとま)に線香の 煙とともに灰(はい)左様なら/辞世の歌

1767年 – 1848年「曲亭馬琴」

放蕩・馬琴は京伝に救われ、「南総里見八犬伝」を著した曲亭馬琴

曲亭馬琴

曲亭馬琴は、旗本の用人・滝沢家の五男として生まれました。若い頃は放蕩息子で知られており、母の臨終の際には兄たちが方々探し回るほどでした。
その馬琴は我儘な性格から職を転々としています。

24歳の頃、山東京伝に弟子入りを志願。京伝は弟子入りは断りつつも、この放蕩息子に目をかけ、作家への道を後押ししました。京伝死後、「南総里見八犬伝」は馬琴のライフワークのように紡がれます。馬琴の京伝への恩返しのようにも感じられます。

曲亭馬琴の名言

世の中の 役を逃れて もとのまゝ かへすぞあめと つちの人形/辞世の歌

物はとかく時節をまたねば、願うことも成就せず、短慮は功をなさず。/「占夢南柯後記」

1867年〜「明治時代以降」

武士の世の終わりと国民時代の到来

憲法発布略図

長きにわたる徳川の世は、1867年に終わりを迎えました。大政奉還により政権は朝廷に返上され、明治時代が幕を開けます。いわゆる「明治維新」です。日本の歴史において、これほどの大転換はかつてありませんでした。

なによりも「四民平等」が叫ばれ、これまで当たり前に存在した身分というものが(少なくとも建前上は)消えて無くなりました。代わって「国民」概念が世の中に敷衍されます。

二度の大戦を経て、現代までつづく時代のはじまり。文学が、真に大衆のものとなった時代であり、また、真に大衆によるものとなった時代でもあります。

明治時代以降に活躍した文学関係者は?

1859年 – 1934年「坪内逍遥」

「小説神髄」を著し、写実を唱えた近代文学の先駆者

坪内逍遥は、尾張藩の役人の子として生まれました。家族の影響で子供の頃から文芸に親しんだと言われています。東大を卒業すると早稲田大学の前身・東京専門学校の講師となり教鞭をとりました。

1885年に発表した「小説神髄」では、江戸期の勧善懲悪を否定し、心理的写実を提唱するなど、日本文学の近代化に大きな影響を与えました。

坪内逍遥の名言

知識を与うるよりも感銘を与えよ。感銘せしむるよりも実践せしめよ。/「文芸と教育」

子ゆえに迷い、子ゆえに悟る。/「牧の方」

1155年 – 1216年「二葉亭四迷」

「浮雲」を著し、写実主義を受け継ぎ言文一致を試みる

二葉亭四迷は、尾張藩士の息子として生まれ、東京外国語学校(現在の東京外語大学)中退後、専修学校(現在の専修大学)で学びました。卒業後出会った坪内逍遥のもとに通い詰めるようになります。

坪内逍遥の写実主義を継承しつつ、「当世書生気質」にも残っていた戯作文学の影響を除くことを目指して「浮雲」を執筆しました。言文一致で書かれたこの作品は、多くの文学者に影響を与えたとされます。

二葉亭四迷の名言

いや、人生は気合だね/「酒余茶間」

愛に住すれば人生に意義あり、愛を離るれば、人生は無意義なり。/「平凡」

1867年 – 1947年「幸田露伴」

「五重の塔」を著し一時代を築いた破天荒な文豪

幸田露伴

幸田露伴は、幕臣の子として生まれ、幼い頃は病弱で何度も生死の境を彷徨いました。文学に触れたのも、この頃です。学校も転々とし、電信技師として北海道に赴任するも、文学の熱冷めやらず帰京してしまいます。

1893年には「五重塔」を発表し、尾崎紅葉と並んで紅露時代と呼ばれる一時代を築きました。1908年には京都帝大の教授になるも、1年足らずで東京に帰ってしまいます。やはり破天荒な幸田露伴なのでした。

幸田露伴の名言

見栄の行きどまりは、馬鹿げて大きなる石をかつぐ事なり。/「ひとり言」

世間は気次第で忌々(いまいま)しく面白くなるもの。/「五重塔」

1862年 – 1922年「森鴎外」

「舞姫」を著し、医業に飽きたりなかった文豪

森鷗外は、代々石見国津和野藩の典医の家に生まれました。幼い頃から学問に秀で、明治維新・廃藩置県とともに上京して官立医学校(現在の東大医学部)に入ります。

周囲の周旋もあり、卒業後は軍医として身を立てつつ、文学活動も旺盛に行いました。ドイツ留学の経験から「舞姫」を著したほか、「阿部一族」「山椒大夫」など幅広いジャンルで活躍しました。

森鴎外の名言

実に敵という敵の中で山の神ほど恐ろしい敵はない。/「金貨」(※ 山の神=妻の意)

一匹の人間が持っている丈(だけ)の精力を一事に傾注すると、実際不可能な事はなくなるかも知れない。/「雁」

‘1872年

「たけくらべ」を著し、奇跡の14ヶ月を駆け抜けた文豪

樋口一葉

樋口一葉は、東京府の下級役人の次女として生まれました。幼い頃から利発で、私立青海学校高等科は首席で卒業しています。その後、歌塾・萩の舎に入門しますが、父と長兄の死などにより生計が悪化します。

その後、原稿料のために小説を書くことを決意します。1894年12月、苦心の末にようやく好機が訪れます。「大つごもり」「たけくらべ」「行く雲」「にごりえ」「十三夜」を立て続けに発表し、《奇跡の14ヶ月》と呼ばれました。

樋口一葉の名言

只世にをかしくて、あやしく、のどかに、やはらかに、悲しく、おもしろきものは恋とこそ言はめ。/「しのぶぐさ」

身をすてつるなれば 世の中の事 何かはおそろしからん。/「日記」

1867年 – 1902年「正岡子規」

「歌よみに与ふる書」を著し、客観写生を唱えた"ホトトギス"

正岡子規

正岡子規は伊予国(現在の愛媛県)松山藩士の子として生まれました。母方の祖父(大原観山)の影響で幼くして漢籍を学び、やがて上京し帝国大学に入学します。大学中退後は新聞「日本」の記者として日清戦争にも従軍しました。

和歌俳句といった短詩系を得意とし、俳号は子規(ホトトギスの意)としました。肺結核から喀血した自身をホトトギスに例え、辞世の句(絶筆三句)においても客観写生を貫きました。

正岡子規の名言

家庭の教育は知らず知らずの間に施されるもので、必ずしも親が教えようと思わない事でも、子供は能(よ)く親の真似をしている事が多い。/「病牀六尺」

病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。/「病牀六尺」

1871年 – 1952年「土井晩翠」

「荒城の月」を作詞し、詩をもって”晩藤時代”を築いた東北の雄

土井晩翠

土井晩翠は、仙台県の質屋の息子として生まれました。両親の影響で幼くして詩歌に触れます。第二高等中学校(東北大の前身)、帝国大と学び教師の職に就きました。

在学中から詩を発表し、島崎藤村と並んで晩藤時代と呼ばれました。1898年には東京音楽学校(現在の東京学芸大)から唱歌制作を依頼され「荒城の月」を作詞しました。非常に多くの校歌の作詞を手がけたことでも知られています。

土井晩翠の名言

祁山悲秋の風更けて、 陣雲暗し五丈原、 零露の文は繁くして、 草枯れて馬は肥ゆれども、 蜀軍の旗光なく、 鼓角の音も今しづか、 丞相病篤かりき。/「天地有情(星落秋風五丈原)」

「或は人を天上に揚げ或は天を此土に下す」と詩の理想は即是也。詩は閑人の囈語に非ず、詩は彫虫篆刻の末技に非ず。/「天地有情(序)」

1872年 – 1943年「島崎藤村」

「若菜集」を著し、内包した矛盾と憂鬱の文豪

島崎藤村

島崎藤村は、現在の岐阜県出身。幼い頃から文学に親しみ、明治学院本科(現在の明治学院大)を卒業。その後、教職に就く傍ら、「若菜集」などの詩を発表します。

その後、小説に転向。「破戒」「家」「春」「夜明け前」などを著します。受洗と棄教、教え子との愛、姪との愛など、自身の抱える矛盾や憂鬱と格闘しながら、しかもそれを作品へのエネルギーとして昇華していたことが伺えます。

島崎藤村の名言

親はもとより大切である。 しかし自分の道を見出すということは猶(なお)大切だ。人は各自自分の道を見出すべきだ。/「春」

人間のためと言いましても、自分のすぐ隣にいる人から始めるよりほかに仕方がない。/「新生」

1886年 – 1912年「石川啄木」

「一握の砂」を著し、詩をもって一時代を築いた東北の雄

石川啄木

石川啄木は、曹洞宗常光寺住職の長男として岩手県南岩手郡に生まれました。その後は盛岡に移転。中学時代「明星」を読み、与謝野晶子らの短歌に傾倒します。卒業後は教職に就き、詩作を続けました。

1910年、口語体3行詩による「一握の砂」を発表し詩壇内外から注目を集めました。また、その年6月の大逆事件に強い関心を寄せ、社会主義思想に新しい文芸の可能性を見たとされています。

石川啄木の名言

恋は人生のすべてではない。 その一部分だ。しかもごく僅かな一部分だ。/「ローマ字日記」

はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る/「一握の砂」

1867年 – 1916年「夏目漱石」

「こゝろ」を著し、神経衰弱・胃潰瘍と闘った文豪

夏目漱石

夏目漱石は、牛込(現在の東京都新宿区)生まれ。家庭内のトラブルに見舞われながらも、帝国大を卒業しました。教職に就き、松山・熊本への赴任を経てイギリスに留学します。帰国後「吾輩は猫である」で一躍有名作家になりました。

その後は朝日新聞に入社し、1908年から「三四郎」「それから」「門」(前期三部作)を、1912年から「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」(後期三部作)を著しました。神経衰弱と胃潰瘍に長く苦しんだことでも知られています。

夏目漱石の名言

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。/「草枕」

自分のしている事が、自分の目的(エンド)になっていない程苦しい事はない。/「行人」

1892年 – 1927年「芥川龍之介」

「羅城門」を著し、才能を惜しまれつつ散った文豪

芥川龍之介は、東京生まれ。母の実家である芥川家にて幼少期を過ごし、身内の影響で文芸に触れました。その後、東京帝大に入学します。在学中に「羅城門」「鼻」を発表し、「鼻」を激賞した漱石を師と仰ぎました。

海軍機関学校教員や大阪毎日新聞社員として生計を立てつつ「地獄変」「河童」「歯車」などを発表しました。漱石と同じく神経衰弱と胃潰瘍に苦しみながらの文筆活動でした。

芥川龍之介の名言

人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦(ばかばか)しい。重大に扱わなければ危険である。/「侏儒の言葉 文芸的な、余りに文芸的な」

人生を幸福にするためには、日常の瑣事(さじ)を愛さなければならぬ。/「侏儒の言葉」

1899年 – 1972年「川端康成」

「雪国」を著し、ノーベル文学賞を獲得した文豪

川端康成

川端康成は、大阪府の医師の長男として生まれますが、早くに両親を失い、父方の祖父に養育されます。中学時代にはすでに作家になることを志望し、東京帝大在学中に菊池寛に認められる程でした。

卒業後は横光利一らと「文藝時代」を創刊、1926年に「伊豆の踊子」で一躍有名になりました。1968年にはノーベル文学賞を受賞しています。代表作は「禽獣」「雪国」「千羽鶴」など。

川端康成の名言

男が家庭を持ちたいってのは、思い切り阿呆になれる場所がほしいからだ。/「化粧と口笛」

自分の年とってゆくのを忘れさせてくれるのは子供しかないってことは、あらゆる生物の楽しい悲劇ですよ。/「化粧と口笛」

1909年 – 1948年「太宰治」

「人間失格」を著し、苦悩から自殺未遂を繰り返した文豪

太宰治

太宰治は、青森県の地主の六男として生まれました。忙しい両親の代わりに伯母に育てられ、幼い頃から文学少年でした。生活苦はありませんでしたが、恵まれた境遇への懐疑があったと言われています。

非合法運動への加担あるいは薬物、自殺・心中未遂といった荒んだ生活を送る中での文筆活動でした。代表作に「走れメロス」「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」などがあります。

太宰治の名言

怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。/「駈込み訴え」

だまされる人よりも、だます人のほうが、数十倍くるしいさ。地獄に落ちるのだからね。/「かすかな声」

1886年 – 1965年「谷崎潤一郎」

「細雪」を著し、細君譲渡事件など何かとスキャンダラスな文豪

谷崎潤一郎

谷崎潤一郎は、東京生まれ。幼い頃から秀才ぶりを発揮して「神童」と呼ばれます。親の事業がうまくいかず学費に困るのですが、潤一郎の才能を愛する周囲の助けもあり、東京帝国大に進学することができました。

在学中から第二次「新思潮」を創刊し、中退後も次々と作品を発表しました。三度結婚をしつつ(中には細君譲渡事件というスキャンダルもあり)、代表作「細雪」のモデルは三度目の妻とその妹だと言われています。

谷崎潤一郎の名言

美は考えるものではない。 一見して直に感ずる事の出来る、極めて簡単な手続きのものだ。/「金色の死」

いい宝石は泥土に投げ捨て、火の中へ燻(く)べても固有の輝きを失わない。/「肉塊」

1925年 – 1970年「三島由紀夫」

仮面の告白」を著し、「楯の会」結成など国を憂いた文豪

三島由紀夫は、東京生まれ。祖母・夏子の影響により病弱な箱入息子として育ち、文学の素養もこの時代に得ており、10代前半で小説を発表していました。東大卒業後は、大蔵省に入省するも1年足らずで退職し、専業作家となります。

1949年「仮面の告白」以後、「禁色」「金閣寺」などを著しました。「楯の会」を組織するなど軍国主義的な思想をもち、1970年には自衛隊市ヶ谷駐屯地で決起を訴えた後に割腹自殺を遂げたことでも知られています。

三島由紀夫の名言

愛するということにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠の素人である。/「愛するということ」

決定されているが故に僕らの可能性は無限であり、止められているが故に僕らの飛翔は永遠である。/「わが世代の革命」

日本文学史の関連作品

日本文学史に関するおすすめ書籍・本・漫画

この記事を書くために参考にした書籍で、面白かったものを紹介します。

日本文学史 (講談社学術文庫)

日本文学史を扱っている、いわゆる入門書の部類。歴史の中で、個々の作品を詳らかに解き明かすという点は省き、「雅」と「俗」という分類で大まかに掴めるように工夫されています。

原色 新日本文学史増補版

こちらは、情報の網羅性に定評のある一冊です。ただ、文字情報で埋め尽くすのではなく、便覧・資料集のように見やすさ、理解しやすさに重点がおかれています。

日本文学史序説〈上・下〉(筑摩書房)

戦後を代表する評論家で医師の加藤周一が日本文学史を概説した書籍です。

この本のポイントは、各時代の文学と文化、もっといえば私たちの生活と文学とを結びつけ、その上で歴史的な文学の流れを解説してくれる点にあります。文学思索を深めるには最適の書と言えます。

日本の文学史を学べるおすすめ書籍を以下の記事でさらに詳しく紹介していますので、読んでみてください。

【24年1月最新】日本の文学史に関するおすすめ本ランキングTOP7

日本文学史に関連するおすすめ動画

源氏物語文学セミナー 四帖 夕顔

「源氏物語」でも人気の高い「夕顔」の解説動画です。

源氏がふとしたことから出会った夕顔。逢瀬を重ねるうち、六条の御息所の霊によって夕顔を失ってしまうという儚いものです。その寂寥が、ナレーションによってひときわ強く感じることができます。

単なる訳語音読ではなく、しっかり解説されていますので、初めての方にも抵抗なく物語に馴染めると思います。

徒然草(1/2)

「徒然草」の解説動画の前線です。ナレーションの落ち着いたテンポと声が、一語一語、丁寧に語ってくれています。

一話一話が短いのに、色々注釈付きの現代語訳版などはちょっと読むのも億劫ですが、音声で語ってくれるので、通勤電車の中などでも聞くことができます。

中田敦彦のYoutube大学 夏目漱石の名作文学「こころ」

夏目漱石の「こころ」をテーマに、オリエンタルラジオの中田敦彦氏が「Youtube大学」で解説をしています。

物語のあらすじ解説がメインですが、漫才で培われたトーク力に、ホワイトボードのまとめが加わり、非常に理解しやすいです。他の作家の代表作についてもほぼ網羅的に載っていますので、日本近現代文学の概観には好適だと感じます。

関連外部リンク

終わりに

今回は日本文学史というテーマで、各時代の代表作品をご紹介しつつ、とくにその著者の人生にスポットライトをあて、ご紹介しました。

日本文学の層は厚く、そして長く、これは世界各国に文学史ありといえども、他に類をみない日本史の中のひとつの僥倖であったと思われます。

過去の文学作品は、ただ単に生み出されそして保存をされてきたわけではありません。先人たちの、それこそ血の滲むような努力の末にようやく生みだされ、そして守られて今日までその姿を残してくれているものです。また、「失敗は成功のもと」という言葉があるように、殆どの文学者は苦難や失敗から立ち上がり、後世の私たちに作品を残してくれました。

この先人たちの苦労に思いを馳せながら、少しでも多くの方に日本文学への興味をもっていただけたら嬉しいです!

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